Kan-Kan の雑記帳


2001年5月28日

 全仏オープンが始まったので、夜もおちおち眠れません(笑)。今夜は、クレーコートの王者クエルテンと若武者コリア、これからのテニス界を占うに足る、見ごたえのあるゲームです。

もっと京都 11
 洛北の名刹、大徳寺。一休さんで有名ですが、彼は中興の祖、それにこの寺を任された当時、既に高齢であったにもかかわらず、ここには定住せず、山城の一休寺(いい寺です)から遥遥、輿(こし)で通ったというのがいいですね。権力の上に胡座をかかない姿勢がかっこいい(もっとも彼はそもそも皇子ですから、執着する理由も必要もなかったわけで・・・いやいや、皇子の中にもエグイ方はいてはったー笑ー)。

 金閣寺から車で5分、普段から公開している塔頭(たっちゅう)が少ないので駐車場も大寺院の割に狭い。それがこの日は満杯、10分ほど待たされる。連休の1週間だけ特別公開で、芳春院、聚光院、本坊の3つが拝観出来るのです。また降り出した雨に、嫁ハンの足も考え、見れる分だけでも見ようと、まず芳春院へ。長い石畳のアプローチ、見事に手入れされた松と苔が美しい。結構いるはずの参拝者も広い境内なのでごくまばらに感じる。

 さて、特別公開時の楽しみのひとつは大学生のアルバイトによる説明。これがいつもおもろいのです。今回もこれにはまり、結局3箇所すべて廻ることになりました。

2001年5月26日

誰か故郷を思はざる 2
 冒険家、河野さん遭難。北極から故郷、愛媛まで歩いて帰ろうてか?6年がかりの計画だったとか・・・。氷の割れ目は冷たかったやろなあ。彼の家は私の実家から車で2時間くらい西、海の美しいところです。今、ふと「実家」と書いて、そうか「実の家」なのかと思う。帰るべき所なのかな。河野さんは6年かけて、私は30年かかってまだたどり着けない・・・もともと帰ろう、帰りたいという気持ちが人より希薄なのかもしれない。年に何回かの帰省は楽しみだし、友人もいるし・・・でも住み着くには覚悟の要るところ。大阪のこの気楽な味は捨て難いし・・・。

 何年か前、突然息子が「僕、お父さんってホームレスになるような気がする。」「さすが息子、よくわかってる」と応えつつ、ドキッとしました。四国の山中に何百年も住んできた一族の一員なのに、体のどこかに放浪性があるのかもしれません。息子もその血をひいているようで、今朝もリュックを背負ってどこやらへ出て行きました。

もっと京都 10
 4月29日、朝。小雨。ホテルのバイキングをしっかり食べて、さて何処へ行こう?嫁ハンが、私、金閣寺って行った事無いの・・・へえ、そりゃちょうどよかったと車を衣笠へ。混んではいたが駐車場にはすんなり入れる。外国人観光客と修学旅行生が多い。昨冬、雪の朝に訪れたときは白い雪、黒い松、灰色の空の下、不思議な輝きを放っていたけど、この日は燃えるような新緑の中、鏡湖池に映える姿はキラキラ生命力に満ちている。市街地のすぐ側なのに、衣笠山を借景に、京都市内のどこの寺より自然の中にいる事を感じさせる仕組みが優れている。ビルや個人の住宅が全く見えないのがうれしい。嫁ハンも感動。

 でも、池の側にわざわざ「この寺は金閣寺ではありません鹿苑寺です」という表示があるのが無粋。ええやんか、だってここまでの道筋の案内もずっと金閣なんだから・・・。池の側で学生達が「秀吉が造ったのよね。」「バカ!義満でしょ」などと騒いでいる。つい、よく誤解されるねんで,歌舞伎の「金閣寺」には秀吉がでてくるもんね、とフォローを入れて、いじめられてた娘に感謝される。女学生にはやさしいかんちゃんです。

 金閣を見下ろす岡の上の夕佳亭(せっかてい)で、南天の床柱を背に酒を飲んでみたいと嫁ハンにつぶやく。どこでもそんな夢のような事言ってるわね。いや、あと、桂離宮の向月台と詩仙堂の二階うんぬんと指折り始め、自分の卑しさをふと感じる。権力者が搾取の上に築いた豪奢な建物。そこに自由に訪れる事が出来る現代という社会。かつて、一部の権力者とその周辺にのみ許された「風流」が誰でも「金」で垣間見られる今。

 それにこの寺は本来禅寺で修行僧もいてはるはず、姿は何処に?どこの寺でも一応(?)本尊を拝むのに、参拝客は金閣という建物と周囲の庭だけ見物して、誰も中の仏様は拝まなかったなあ。そういうシステムにすらなっていない。それも変だなあ。世界遺産、外国人も多いし、信仰の場であるより、観光の場であることが優先されてきているのですね。ウーム。

 雨が上がり、薄日が射してきました。次は大徳寺へ。

2001年5月25日

もっと京都 9

 ライブのラストソングは「ラストワルツ」。この歌を歌うとは思わなかったので、ちょっと驚く。中学時代、2枚目に買ったレコードだった。エンゲルベルト・フンパーディンクの歌唱でヒットしたけど、原曲はシャンソンだったんですね。I had a last  waltz  with you, two lonly people together・・・37年も前の事なのに、不思議に歌詞も憶えている。嫁ハンは日本語で歌ったけど・・・。懐かしい想いにひたりました。

 すぐ、現実に返って、2人で店を飛び出し、先斗町へ。11時。ちょっと冷えてくる。先刻、目星をつけていた、遅くまでやってる居酒屋で、漬物をあてにビールと焼酎のお湯割、嫁ハンはチュウハイ。鴨川の岸辺のカップルも、数が減ってきたのが窓から見える。焼きオニギリで仕上げ。4条でタクシーを拾い、京都駅近くのホテルへ。本来の出演者が予約していたので、代役の嫁ハンと連れの私はただで泊まれるというおいしい話。外は雨が降り始めている。

2001年5月24日

もっと京都 8

 宮川町から団栗橋を渡ってすぐ、河原町仏光寺のシャンソンライブ「巴里野郎」が嫁ハンが歌っている店。30人入れば満員の、でも京都のライブハウスでは老舗の方かな、10時からの最終ライブに間に合うように階段を上る。休日なので20人前後入っている。演奏までの合間が困る。隅の方で静かにウイスキーを飲んでいてもなんとなく回りの視線が気になる。ほら菅さんのご主人よという声が聞こえてくるときもある。無遠慮なのは中年のおばさま方。隣の顔見知りの老紳士と京都のおいしい店の話などをして開演を待つ。オープニングは加藤登紀子の「難破船」。シャンソン以外の歌もよく歌っているのです。

2001年5月14日

行く人来る人 8

ペリー・コモ
 あの伸びやかな歌声。仕事の帰りにラジオから「ローズ・タトゥ・・薔薇の刺青」が流れてきました。
 丁寧に人の心に届く歌。憶えやすい美しいメロディ。そんな時代は過ぎて行きました。

もっと京都 7

 宮川町のおでんやー「蛸長」(たこちょう)。ガイドブックにもよく出ているよう。ここもカウンターだけ8席くらい。もちろんテレビも音楽も無い。70才くらいのお父さんと、以前は息子さんみたいな人がいたが、この日は若いアルバイト風の男の人と二人。やはり物静かで動きは迅速。鴨川べりで外は車も多く通るけど、店の中は静か。3品注文、酒も。おでんの鍋のそばでかんぽで暖めてくれる。猪口も一緒に・・・。ゆっくり飲んで酒が少し醒めたかなと思う頃には、銚子が暖め直されている。湯葉は時間がかかるからときちんと断って、あつあつを出してくれる。すべて目の前の作業。

 出過ぎず、引き過ぎず、絶妙の呼吸は流石。客に目が届く範囲で丁寧に仕事をしてはる。それにしても息子さん(と決め付けている)どうしはったんやろ?いろいろ想像してみる。でも、もちろん何もきかない。

 ここでも静かに飲んで約20分。1300円。9時半に近くなる。そろそろ行かなくては。

2001年5月13日

もっと京都 6

 先斗町へ廻って、遅くまでやっていそうな店の営業時間を確認してから、祇園へ。毎年、顔見世の帰りに寄る、花見小路近くの店の前に来る。暗い路地にほのかな灯かり。暖簾が新しくなっている。寄贈は歌舞伎役者の人間国宝中村しかんさん。覗いてみようかと思ったが、時間と懐具合を考えてパス。おかみさん(80才近いはず)の声がかすかに洩れてくる。静かだが客はいる気配。それにしても京都の路地ってどうして暗くても、安心感と安らぎと華やかさがあるのだろう。田舎育ちで暗闇の怖さ、不安感が染み付いている人間としては、いつも不思議に感じる。歴史を持つ町の力なのでしょうか・・・。

 路地を下がって、それから西へ。宮川町に向う。ここで9時。

2001年5月12日

もっと京都 5

 老舗のバー「サンボア」。話には聞いていたけど、初めてドアーを押しました。
10畳くらい。カウンターだけ、8から10席程の小さい店だけど、席の後ろのスペースがゆったりしているので窮屈な感じはしない。照明は明るめ、音楽はなし。先客が3名いましたが、小さな声で静かに会話していて、内容も聞き取れない。マスターがこれも小さな声でご注文は?棚のボトルを指してあれは?と言うと、さらに小さな声でお高いですよと教えてくれる。大阪人だから、勇気を持っておいくらですか?と聞くとダブルで1万円ほどです、うわー、では普通のお酒をオンザロックでとお願いする。ウイスキーはニッカ。氷はひとつ。あては皮付きピーナッツ。マスターはあくまで控えめにカウンター内の隅に。装飾は壁と天井に各国のオープナーがずらりあるだけ。あちこち眺めながらちびりちびり飲んでいると、すーと京都新聞が差し出される。20分ほどで勘定、1、200円なり。

 居酒屋の2,3倍の値段かもしれないけど、梶井基次郎が、西田幾多郎が飲んだ席という付加価値と落ち着いたムードがある。いつも安くたっぷり飲もうということしか頭にないかんちゃんには久々の上品な酒、良い刺激ではありました。

 後日、友人に話すと、ピーナッツの皮は床に落とすのですよと教えられた。なるほど。この時点で8時半。祇園へ向う。

2001年5月10日

レッサーパンダ帽子の男逮捕。1千件の目撃情報から割り出されたというのはスゴイが、この男は許せん!

以前から気にはなっていたのですが、アドヴァイスもいただいて、この際、掲載写真を消してもらいました。松島菜々子さんの分だけ残念ですが・・・。そのうちデジカメを手に入れたいと思っています。

もっと京都 4

 嫁ハンのライブは8時から。6時に店まで送って、それからひとりで夜の洛中へ。木屋町から高瀬川沿いに出てあちこちの小さな店を覗く。川沿いの桜が見事に成長していて、花見時はさぞ見事だったろうと想像。四条を挟んで桜の種類が違うのだって・・・。来年はここも見に来たい。

 新京極に出て寺町との間の路地を徘徊しながら北へ向う。さすが寺町にはお寺が多い。改めて感心。和泉式部の墓を発見。恋愛成就の御札もある。確かに恋多き女性だったけど、成就とは違うんじゃないかとちょっと複雑な思い。三条まで歩いて振り返り、小さな坂を南にすっと下ると目当ての店はすぐそこに。

2001年5月8日

もっと京都 3

 「ラビアンローズ」がだめなら、嵐山を眺めようと、車を止めて嫁ハンとゆっくり歩く。道端の煎餅を買ってかじる。オプションで嫁ハンはざらめ、私は紫蘇、焼き立てで暖かくておいしい。新装なった渡月橋のあたりはさすがに人も多いけど、大堰川のほとりを溯ると、ぐっと人も少なくなる。「吉兆」も「嵐亭」も横目に(いつか行きたい)ぶらぶらと。日差しが強い。嵐山の新緑が眩しい。あちこちの紫は藤の花らしい。ボートや遊覧船が行き交い、オールの先に滴が輝く。川端の小さい店に入り、缶ビールで乾杯。スケッチする人、犬を遊ばせる人、子ども達はやはり川にはまってしまっている。こんな小旅行もいいねと老夫婦のような会話を交わす。リハビリ中の嫁ハンの足も考えて、早めに引き返す。こんなところも年を感じてしまう。寸暇を惜しんで歩きまわった頃が夢のよう。

2001年5月5日

もっと京都 2

そうだ、あそこへ行こう・・・。
「あそこ」とは、嵯峨野にある「ラビアンローズ」という喫茶店。

 「ラビアンローズ=バラ色の人生」というシャンソンがありますね。元高校教師というマスターが丹精している薔薇園の中の薔薇づくしの店。トイレの中まで薔薇が溢れています。(花粉症の方は気の毒ですが無理ですね。)

 車で堀川通りを北へ、緑濃い嵐山が近づいてくる。桂川の土手を走り、共済の宿、「花の家」の手前を右に入って、さらに山陰線、嵯峨野駅近くの路地に入ると薔薇の垣根がまだ青い。その先の入口にもチェーンが・・・。まだ薔薇は咲いていないのです。花の時期にしか開店しない店に行くのも一苦労ではあります。

 でも、電話で確認するのもイマイチなのですよね。巡り合えればそれでいいと思っているのです。あの花芽の具合では、開店は今月の10日頃からでしょうか?

2001年5月4日

 3日の夜、宇宙旅行の夢を見ました。米国の富豪の宇宙船搭乗の報道や、連休のwowowの「スターウォーズ」連続放映を見てしまった影響かもしれません。久しぶりに富田林の「スバルホール」へ行きたくなりました。あそこのプラネタリウムも素敵です。

もっと京都 1

 若いころは京都の暗さ、気位の高さ(と感じていた)に勝手に反発して、奈良によく行っていました。京都にはまったのは30代になってから。暗さは奥深さ、気位はいい意味でのプライドと解釈できるようになってきました(年の所為か丸くなった?)。それから年に数度は訪れ、ぼちぼちまわるようになりました。その都度感じたことをご報告。みなさんも情報よろしく。

 4月28日、第4土曜日、嫁ハンが急遽、木屋町のライブハウスに出演することになり、足の悪い(3月末に足の靭帯損傷)彼女のアッシー君として車で京都に。(嫁ハンはシャンソンを唄っています・・・話しましたっけ?)西名阪、郡山から奈良市内を縦断、京奈和道路を北上。あちこちの新緑に目を洗われる。右手に比叡山、左手に愛宕山が見えてくる。うきうき。観月橋の所で渋滞するも、思ったより早く到着。ホテルにチェックインしてまだ時間がある。そうだ、あそこへ行こう。

2001年5月3日

連休前半は京都、後半はゆっくりという今年の黄金週間です。

読書コーナー

「かけがえのない贈り物」  向田和子
 ご存知、向田邦子さんの一番下の妹さんの初エッセイ。しゃきしゃきしたお姉さんと対照的な、おっとりした不器用な妹である筆者の、姉への熱い思い。
 「贈り物」は赤坂に開業させてもらって、今も繁盛中の「ままや」という居酒屋のこと。サービス精神の塊ようなお姉さんの働きかけに時に圧倒されながら、懸命に応えてゆく姿が感動的。
 あの飛行機事故のあと邦子さんの部屋の整理をしたら、全然お金が残っていなかったこと、残された愛猫マミオのその後と死・・・
 うまくはないけど、肉親に対する思い、社会の中で鍛えられ成長して行く筆者の姿が素直に綴られ、胸をうたれる作品です。そして、そのような兄弟姉妹を育てた両親の姿が鮮やかに浮き上がってくるのです。
「わたしのおせっかい談義」  沢村貞子
 これは筆者お得意のエッセイではなくて講演会の記録。聴衆は主婦が中心の様子。人の見方や常識にとらわれず、、また周囲から浮きもせず、自分の分をわきまえて生きる姿。その家族主義は、ちょっと自分を控え過ぎと思わないでもありませんが、本人がそれで満足しているのだから、文句はいえません。
 「支出を考えて必要額だけ稼ぐように働く」というありかたも現代においては新鮮です。晩御飯のおかず以外のすべてを話し合うという夫婦のありかたも。おかずを秘密にするのは、驚かせてやりたいという思いから。台所のドアも閉め切って、匂いが洩れないようしにて料理に励むのだそうです。

 この夫婦が亡くなって、共に相模湾に散骨されて、もう10年近くたちました。

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