Kan-Kan の雑記帳


2002年12月29日

 やっと大掃除。カレンダーの整理、入れ替えをし、そして今年は、就職した年にもらった30年カレンダーを仕舞いました。小さな一年ずつのコーナーにいろいろ書き込んだので、結婚、出産、転勤、旅行などをした日付が一目でわかって便利でした。新しい30年カレンダーを買おうかどうか、迷っています。82歳まで生きているとは思えませんし・・・(笑)。

 「思い出の紅白」という特集番組を聴きつつ、やっと賀状を一応(葉書が足らず、一部残す)書いて、これから旅仕度。明朝、中国へ向かいます。2年前の旅の記録(「中国への旅」)の連載も終わらないままですが・・・。

 数年前のように、むきになって年内にあれこれ終わらせようとは思わなくなりました。掃除も、し残したらまた来年やればいいという感じ。年と共にさらにずぼらになりつつあるようです。

 関西空港で四国から来る父を迎え、成都への直行便に乗り換えます。成都から車で3時間余、楽山が目的地です。父にとってもこれが最後の姪の慰霊の旅になるでしょう。紅白歌合戦は楽山市内のホテルで見られるでしょう。みなさま、よいお年を。


最近読んだ本
「命の器」 宮本輝

 宮本氏が井上靖から聞いた小林秀雄評「小林さんは、自分の感じたことしか書きませんでした。あれほど、自分の感じたことしか書かなかった人はいないでしょう。それは凄いことですねェ」
「酒の上の話」 村松友み

 「バーテンダーは揺れている・・・」そうか、バーテンダーはバーという空間の演出家だったんだ。そんなバーを一軒だけ知っている。読みながら、永らく行っていないバーというものへ行きたくなった。

2002年12月27日

もっと京都

 年に一度の贅沢旅行、「顔見世と京の旅」も今年で20年目。メンバーは不動の3人。それぞれ70、60、50代(私)ですが、毎年、欠かさず続けて来れたのも、運に恵まれていたからと思う。本人や家族の病気やご不幸もあったけど、不思議に12月は3人揃っていた。幹事も持ち回りで、切符の手配から、宿、翌日の行程も責任を持つ。

 近鉄橿原神宮駅に8時過ぎに集まり、京都行きの特急に乗る。好天、ラッキー。三輪山を右手に、薬師寺も過ぎて、西大寺を過ぎた頃に、酒を出す。これは私の分担。今回は御前酒と月桂冠クラシック、わいわい言っているうちに、丹波橋に。京阪に乗り換えて4条へ。9時半。ここで鴨川の河原に降りて、都鳥を眺めながら、また一杯飲むのが恒例。釣り人が小さな魚を釣り上げては鷺に投げてやっている。10時開店の高島屋の地下食品売り場へ急ぎ、それぞれ好みの弁当を買って南座に乗り込む。10時半開演なのです。

中国への旅 17

 1999年12月29日午後1時、事件現場の砂州は霧も晴れ上がり、穏やかな日差しに変わる。二つの大河が合流する正面に大仏、左手に河を挟んで楽山市街のビル群、右手に先程の島、洗濯場もよろずやも見える。

 殺害現場と思しき場所で石を積み、線香を手向け、日本(愛媛)から持ってきた餅やミカンを供え、甥が憶えたばかりの般若心経を唱える。みんな涙。観光客が怪訝な表情をして傍を通り抜けてゆく。

 泣いている姉夫婦を残して、甥と(姪の友人の)曹さんを促して、中州の末端部まで向かう。河を隔てて向かいの岸壁に世界遺産、高さ70メートルの大仏が聳え立ち、われわれを見下ろしている。奈良大仏よりはるかに大きい。明るい茶色で、重厚というより伸びやかな印象。手足に観光客が蟻のようにはりついてうごめいているのが見える。目の前を遊覧船がゆっくり通り過ぎる。鈴なりの客。スピーカーからなにやら説明している声が聞こえてくる。のどかな観光地の風情。こんなところで白昼なぜ?との思いがまた頭をもたげる。花束を流す。甥がポツリと「大仏さんのお陰はなかったんやなあ。」とつぶやく。 

2002年12月24日

 クリスマスに合わせたように「たまちゃん」が再登場。暗い世相の中での明るいニュース?それとも平和ボケ日本の象徴なのでしょうか?

 国立市の高層マンションの上層部撤去の判決は小気味いいニュース。京都も見習ってほしい。

 クリスマスソングが流れ続けていますが、今、心に響くのは「ハッピー・クリスマス」。ジョン・レノンの歌声の後ろで、「戦争は終わる、あなたがそれを望むなら」と歌う子供たちのコーラス。

 今年最後の授業はオー・ヘンリーの「警官と賛美歌」を取り上げる。冬の間、島(刑務所)暮らしをしようとたくらみ、小さな悪事を重ねつつ、警官につかまりそこね、たどり着いたブルックリンの古い教会から洩れてくる讃美歌に、心洗われたホームレスは、生き方を改め、働くことを決意するのですが・・・。

中国への旅 16

 男の凶行を見た周さんは、中洲に向かって「何するの!止めなさい!」と何度も叫んだが、声は届かなかったらしい。男は、手早くリュックを探り、返り血を浴びたらしい手足や衣服を河で洗って、川上の渡し場の方へ急ぐ。周さんは振り返って、その日も「よろずや」で麻雀をしていたご主人たちを呼ぶ。みんな駆けつけて大騒ぎになったらしい。ご主人と仲間が舟を仕立てて河を渡る。倒れている姪を見てもうだめだと思い、慌てて引き返して電話で楽山の警察に連絡してくれたらしい。その時点ですでに、犯人は楽山市内に引き返していたのです。

 張さんが現場まで舟で送りましょうと言ってくれたので、好意に甘えて、渡し舟でなく島の舟で中州に渡る。固辞するのを押して御礼をする。またいらしゃい。再見と言いつつ舟は島に去ってゆく。あの島にはもう一度行きたい。 

2002年12月22日

 「三合の酒飲んで今日冬至かな」(六輔)。

 冬至は好きです。寒さは苦手だけれど、これから日が伸びてくると思うと単純に嬉しい。一日テニスに明け暮れて、溜まったアルコールを汗にして流して、また、忘年会に出かける冬の一日です。

 年に一度のお楽しみ土曜ドラマ「混浴露天風呂殺人事件」のシリーズ。今年も見事に期待を裏切ってくれました(笑)。でも、きっちり見てしまう自分が怖い。キャストもスタッフもマンネリに甘んじて、ええかげんな造り、犯人もミエミエ。こうなったら、せいぜい入浴シーンでおっぱいやお尻をサービスしろとテレビに叫んで、嫁ハンにしばかれてしまいました。

 全日本フィギアスケートの女子のレベルの高さに驚嘆。12歳の浅田さんが、史上初の3回転ジャンプ連続3回を決める。15歳の安藤さんは4回転に挑戦(今回は失敗)。中野さんはトリプルアクセルに成功。大田さんの見事な表現力、恩田さんは残念。末恐ろしい若者の出現はうれしいような心配なような複雑な気分です。もちろん大人である荒川さんや村主さん(逆転優勝)の美しさもすばらしいけど・・・。

映画ダイスキ

「パールハーバー」

 大雑把な作りの好戦的映画と酷評されたが、大ヒット。見る気も無かったけど、12月8日にテレビ放映されたので、つい見てしまう。わかりました、ヒットの原因が。いい悪いでなく、現代にない、戦争映画特有のきびきびした人間の動き、主演の若手トリオの新鮮さ、特にジョッシュ・ハートネットはさすがに魅力です。ケート・ベッキンゼールも小粒だが美しい。脚本はご都合主義だけど、ところどころに戦争の無残さも見せ、期待してなかった分、最後まで見せられてしまいました。

中国への旅 15

 名乗り出た男の人(張さん)に導かれて、深い緑に覆われた島の内部に足を踏み入れる。車がないので、広い道はない。草葺の屋根、家を覆う芭蕉、菜の花、豚、鶏の声、庭先の花々・・・懐かしい日本の農村風景がありました。幼い頃の四国の故郷の村に似通うものがある。そのうちの一軒に案内される。周りの家の人々も集まってきて、ちょっとした騒ぎになってしまう。張さんが薄暗い家の中に声をかけると、おばあさんが出てきてくれて、嫁(彼女が第一発見者らしい)は楽山市内へ買い物に行っているという。われわれとすれ違いだったみたい。がっかりしていたら、息子(発見者の夫)が近くで麻雀をしていて、彼が事情をよく知っているという。そこを訪ねることにしました。

 村の外れ、川岸近くに白いコンクリート造りの「よろずや」兼「食堂」があり、そこに、麻雀卓が2組ほど。呼ばれて出てきた発見者(周さん)のご主人という人は小柄でいかにも善良そうな人物。すぐに事情を飲み込んでくれて、麻雀は中断、麻雀メンバーも一緒に、そこだよと言って川岸に案内してくれる。河原には小さな洗濯場(水は澄んでいる)と、村人専用の船着場がある。あの日、昼前に周さんが洗濯をしていると、向かいの中洲から悲鳴が聞こえてきたのだそうです。深い霧が晴れかかっていたので、人物が見えた。男女が揉みあっている。そして男が石を振り下ろすのが見えたのです。

2002年12月20日

 中村のり選手は近鉄に残留。私は近鉄ファンですが、複雑な心境。彼、後悔するんとちゃうかな。涙の説得に折れるのもいいけど、メッツの交渉態度に不信感を持つのも仕方ないけど、自分の夢は追求した方がよかったのではと思ってしまう。ま、お節介ですが・・・。

 迷いつつ、読売巨人の横槍(ヤンキースと裏取引?ライバル紙、朝日新聞の報道だから割り引いて考えなければいけないかも)を撥ね退けて、自分の意思を貫いて契約した松井クン。失敗しても、この方が悔いが少ないと思うけどなあ。

ビデオ世界遺産

○ザルツブルグ市街(オーストリア)

 死ぬまでに行きたい街のひとつ。街の名前は「塩の街」。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台にもなったから、映像を見ているとなぜかなつかしい。メンヒスベルク山の上に聳える白いホーヘンザルツブルグ城、修道院、アルプスの山々、モーツァルトを生んだ街、そして彼が恋い慕い、帰れなかった街。音楽祭の街。退職したら行くぞ。

○シェーンブルン宮殿(オーストリア)

 いかにもヨーロッパの宮殿と庭園らしい。ハプスブルグ家の権力と財宝の象徴、明るく美しい、でも、ベルサイユより軽やかな感じ。夏の宮殿というけれど、1400の室数と1000人の使用人は半端ではない(笑)。マリア・テレジアがその趣味でまとめ上げたようだけど、ご存知のように、皇妃エリザベートは旅ばかりして、ここには住まなかったんだって。もったいない(そんな次元の話ではないが)。フランツ・ヨーゼフは時間に厳しい真面目な人で、彼に時計を合わせたという伝説も。彼の寝室だけ、装飾もなく、めちゃ質素で頑丈な造りなのも新鮮な驚き。最後の言葉が侍従に「明日の朝は4時に起こすように、仕事が残っている。」というのが痛ましい。

○ベルン旧市街(スイス)

 三方を蛇行する川に囲まれた旧市街は狭いはずなのに、道は広い。色(赤茶とクリーム色)も高さも統一された建物はアーケードを内側に取り込んで、人々は雨に濡れずに歩けるし、一階の店同士は通り抜け出来るので、すぐに向こうの通りに抜けられる。緑と花と噴水が多い。ゲーテに愛されたのもむべなるかな。半日くらいぶらっと歩いてみたい。

2002年12月16日

中国への旅 14

 北京から通訳として同行してもらった姪の学友ー曹さんーの協力で、公安から聞いた話を基に、2年前の事件前夜からの姪の足取りをたどる。姪が泊まったホテル(教育会館という)、夕食を摂った街の食堂、そこで店の女主人と大仏を見に来たという話をして、霧は昼前に晴れることを教わり、どうせならと、店にいた客を案内人として紹介されたのです。それが犯人。姪は中国語が話せました。

 我々も地図を確認して、翌朝、深い霧の中、ホテル近くの小さな船着場から大渡河を越え、事件現場の砂州に出かけました。10人乗りくらいの渡し舟(10円)で数十秒、夏の増水期には無くなるというけれど、この時期は長さは2キロ以上、大阪市内の「中の島」くらいのイメージ。とても端まで見えません。砂州を横断して、も一度渡し舟に乗って、向かいの島(今は「太陽島」というー長江の支流でも川中に、何万坪というこういう大きい緑に包まれた島がある)へ渡る。昔から農魚村があるそうですが、今は楽山市のリゾート地として観光開発されつつある。姪と犯人は事件当日の朝、渡し場で落ち合って、いったんこの島に渡って、それから砂州に引き返したのです。

 島に上陸すると、「客引き」が数十人、どっと集まってくる。川辺にそれぞれテーブルを出して、大渡河と対岸の楽山の街並みを眺め、そこでマージャンをしたり、ジュースを飲んだりする、いわゆる貸席のオーナー達です。殺気立った客(我々)の奪い合い。かき分けながら、2年前の事件を知っている人はいませんかと問うてもらうと、途端にみんなの表情が変わりました。中の一人の中年の男性が進み出て来て、みんなよく憶えている、目撃者も知っている、この先の村に住んでいるという。驚き、喜んで、さっそくその家に案内してもらうことにしました。商売はほっておいていいのですか、と問うと、いい、いい、と笑っている。

2002年12月15日

 小春日和の休日、朝風呂に入り、掃除をして、葛城山を望む気に入りの店でモーニング。570円でおいしいパンとミルクティをたっぷりいただきながら、贅沢をしているなあと思います。四国で今頃畑仕事をしているだろう弟を思い、申し訳ない気持ちがこみ上げる。休日こそ溜まっていた畑仕事をこなさなければならない、田舎の暮らし。18まで暮らしたけれど、ゆったり過ごす休日に憧れていました。今、それが手に入って・・・でも、なぜか心から満喫できない、後ろめたい思いがあります。貧乏性なんでしょうね。

中国への旅  13

 ところで中国って、煙草文化が健在。人と会えば、まず煙草を勧められる。公安との深刻な会議中でもみんなスパスパ。ひっきりなしに喫い、また互いに左右に自分の煙草を勧める。「私は喫いません」と言うと、ちょっと意外そうな、残念そうな顔をされる。喫えないことはないけれど、今回は最後まで喫いませんでした。地位や立場によって喫う煙草の銘柄が違っているのを発見。売っている煙草の値段の幅も大きい。義兄が持参した土産は日本製煙草。公安があっさり受け取ったのにも驚きました。

 長い質疑応答の末、だんだん歩み寄れて、最後は一応笑って握手して別れることが出来ました。(加害者や被害者の家族の立場をも含む)人権意識というものは、簡単に共通理解となるものではありません。まして、2年前の事件で、犯人もすでに死刑になっているのです。それでも真摯に対応してくれた一部の若い幹部の姿勢には好感が持てました。そして、後は、明らかにされた事実を基に、出来る範囲で自分たちで調べるしかないと思いました。

2002年12月13日

中国への旅 12

 事件当時、姪は北京の大学に留学中で、春節(旧正月)の長期休暇を利用しての旅行の途中でした。世界遺産「楽山大仏」のビューポイントである川の中州に渡し舟で渡り、そこで襲われたのですが、午前11時半、市街地から数十メートル先の場所でなぜ犯行が出来たか、犯人は深い川に挟まれた中州からどうやって逃げたのか(翌日逮捕)、そもそも、姪は霧に中、なぜ出かけたのか・・・ずっと疑問でした。この2年間、その真相解明のため、さまざまな努力を重ねたけれど、国情、裁判制度の違い、日中問題(首相の訪中)などで足踏みしていました。

 外務省からの連絡は届いていて、日本領事も武漢から5時間、高速道路を飛ばして来てくれる。雑談の中で、武漢市の人口を問うと、3千万人です、えっ、3百万人とちがいますの?と聞き返す。数字の桁が日本と違います。

 公安(日本でいう警察)の会議室で当局と話し合い。ずらり並んだ幹部(約10)と向かい合って、通訳がついて、ものものしい雰囲気。情報公開が進んで来ている日本と違って、なんで一般人に、被害者の家族に、いちいち説明せんといかんのやという意識が強烈に漂ってくる。長時間かけて、ねばりにねばって、やっと少しずつ、事件の全貌が見えてくる。これで3度目の交渉なのです。

2002年12月12日

 「未必の故意」という言葉に久々に会いました。和歌山のカレー事件、自白なし、状況証拠だけで、立証してゆく難しさ。控訴されて、これから何年かかるのでしょう?遺族の悲しみ、癒されぬ傷、亡くなった大貴クンの小学校に植えられた、当時の彼と同じ身長(135センチ)だった泰山木が、3メートルを超えたとニュースにありました。それを見るご両親は本当に辛いだろうなあと思います。真須美容疑者の子供たちも気がかりです。

中国への旅 11

 2000年年末。中国行きは、姉の家族3人と私。姉が事件以来、長いこころのトンネルに入っているので、私は付き添いのようなかたちです。外務省を通じての事前交渉もスムーズには行かず、不安を抱えたままの旅立ちでした。

 関空からまず、北京に着いて、噂に聞いた排気ガスの匂いに驚きました。ロビーで、姪の友人であり、今回の旅の通訳も務めてくれる曹さんと落ち合い、国内航空に乗り換えて、3時間。四川省の省都、成都へ。ここは中国からチベットへの玄関口にあたるらしい。たくさんの、さまざまな格好、衣装の人が行き交っている。少数民族と呼ばれる人が結構多い。それにしても、中国は広い。四川省だけで、日本より広いのですね。

 成都から出来たばかりの高速道路を西に飛ばす。事件のときはまだ開通しておらず、パトカーの先導で悪路を延々と5時間以上かけて走ったらしい。高速道は料金が高いせいもあって、一般車輌はほとんど走っておらず、ところどころで男の人がほうきで道を掃いている。あぶない。まわりはうねるように広がる大地。見飽きない。3時間で楽山(らくざん)市に着く。この町は長江(揚子江)の支流が3つ合流する交通の要地で、高層ビルが並ぶ都会。そして世界遺産に登録された「楽山大仏」で知られる観光都市。霧の都とも呼ばれ、1年で200日は霧だそうで、到着した翌朝も深い霧でした。2年前、その霧の中で起こった殺人事件だったのです。

2002年12月10日

 大ヒットの映画「ハリー・ポッター」をさらに大ヒットの「007ダイアナザーデイ」が興行収入で凌ぐ。こちらは40周年記念作。私の小学生の時に第1作「殺しの番号」が封切られたのでした。あの時、刺激的だった初代ボンドガールのアーシュラ・アンドレスの白いビキニの水着。今回、同じデザインの黄色いビキニで登場する20代目ボンドガールが、40年前は生まれてなかった今年のオスカー女優、ハル・ベリー、主題歌がマドンナの豪華版です。気楽に楽しめそうだから見に行きたい。

 でも、期待はチャン・イーモウの新作「至福の時」(邦題がイマイチ)、一月に梅田ガーデンシネマで公開されます。

中国への旅  10

 2000年12月、終業式を終えて、帰省を前に、四国の母に電話。餅を搗く日をいつにする?○○日はどう?(なにせ一日仕事です)向こうで暦を繰っている気配。「あかんわ。巳の日だから。」「何それ?」「何ぼけとんの?巳正月でしょうが・・・」

 伊予ではその年亡くなった人がいる家では(喪中なので)その年最後の巳の日に、家族でひっそり一足早い正月行事をするのです。その家に遠慮して、にぎやかに餅を搗く音を立てないという慣わし。

 結局、、巳の日を避けたため、朝、フェリーで今治について、家に到着するやいなや餅を搗くはめになる。まだ薄暗い中庭には特設のかまどがもう湯気を立てている。12臼搗いてばててしまいました。でも、その前日、父が宮ノ下(氏神さんの鳥居の付近)で摘んできたよもぎを入れた餅、それに「塩あん」、これがきれいに搗き上がりました。

 それを持って、大阪へUターン。また、それを持って、姉の家族と中国へ向かったのです。事件後2年近く経ち、事後処置と慰霊の旅です。 

2002年12月8日  その2

 日米開戦の日というより、ジョン・レノンの命日ということになってきた昨今。テレビでミュージック・ビデオが朝から流れ続けています。一緒に見ていた息子にオノ・ヨーコさんの話をしたら、驚いていた。彼はジョンの後ろにいたもの静かな女性と思っていたらしい。学習院の女王だったことや、財閥のお嬢さまで、前衛芸術家(有名、無名の人のお尻を撮っておもろい映画を作っていた・・・)として認められていたなんて、若いもんは知らないのですね(当然だけど・・・)。

中国への旅  9

 普通中国では、殺人犯は即、死刑執行という風に聞いていましたが、裁判は長引き、死刑判決が出た後も、執行の気配はありませんでした。最初、日本人の戦争責任とそれへの報復などを口走っていたといわれる犯人も結局、物取りということで断罪され、執行は約1年後の2000年の春でした。その知らせで、姉夫婦たちの心はさらに乱れました。犯人にも妻子がいました。そして、犯人は死んで罪を償っても、姪は帰ってきません。

2002年12月8日  その1

 友人からカスピ海ヨーグルトをもらって1ヶ月。次々と、果てしなく作れるうれしさ、便利さ。なにやら「打ち出の小槌」が手に入ったような贅沢感。お金もこんな風に増えればいいねというのは、給与カット、ボーナス削減に揺れる年末の庶民の率直な思いです。銀行に貯金しても増えないし、その貯金する金も無い。ま、貧乏は恥ではないのだから、ヨーグルトを食べながら、それなりにぼちぼち生きてゆくとしましょう。

 四国の母から電話あり。今年はミカンの出荷の審査がことのほか厳しい。その分、出荷量の制限は無くなったとか。ころころ変わる農政に翻弄され、また高齢化もあって、みかん農家数と生産高が減ってきたらしい。ため息。今年は小さな鳥につつかれるみかんが多いとか。また、イノシシや狸の被害も大きいという。野山が荒れて、野生動物も住み辛くなってきている、それは人間の生活に即反映してゆく。なんや、悪い方に悪い方にぐるぐる廻って堕ちてゆくような不安があります。

 NHK杯フィギアスケートの中国ペアのフリーの演技、バックにプッチーニの「誰も寝てはならぬ」が流れる。今、また脚光を浴びているオペラの名曲、しかも中国が舞台という選曲のうまさが、演技をさらに引き立てていました。

 月船さららさん。一度聞いたら忘れられない名前。タカラヅカでも芸名の力は大きい。若手で素質はすばらしいのに、本人曰く「不器用」で、ずっと役が付かなかった。低迷の後、今回、新人公演で初主役を掴む。これからが楽しみです。


映画ダイスキ
「GO」

 在日の少年の青春と恋を描いて、昨年度の映画賞を総ナメした作品。よく出来ていました。もちろん原作の力も大きいのだけれど、演出が歯切れ良く、時間の交差(橋の上でカメラがターンしてさっと過去に戻る)も鮮やかに描き分ける。演技陣(窪川、柴崎のフレッシュコンビはもちろん、大竹しのぶや山崎務)もいい、ちょっと過激なアクションシーンや若者受けするシーンをちりばめてエンタテイメントに仕上がっています。細かいとこ好きのファンとしては、主人公が朝鮮人学校(ここまで描けているのははじめてみた)の友人から借り受けるシャークスピアの文庫本。「ロミオとジュリエット」は反発しあう両家の間で揺れる恋人同士の話が、二つの国に読み替えられるし、「名前がなんであろう。薔薇はどんな名前で読んでも美しい香りがする。」という名セリフのページをちらっと見せて、名前を明かさない主人公二人の交際の行方を暗示する。またヒロイン(椿という名前)の部屋でのデートで、バックに流れる「椿姫」のアリアは2人の恋の進捗状況に合わせている・・・そのこだわりもうれしい映画でした。
「スパイダーマン」

 大ヒットしたコミックの映画版。スーパーマンとバットマンの中間と言えばいいでしょうか。ただ、特撮が段違いに進歩しているので、蜘蛛の糸を使っての、ビルの谷間の浮遊シーンはすばらしい高揚感があります。ただ、ストーリー展開が甘いのと、主演のトビー・アクガイアに陰影がない(ヒロインも薄っぺら−むしろ、主人公の友人であり、おそらくこれから敵役になるであろう青年俳優がみどころあり)ので、見て損はありませんが、映画としての後味はイマイチ。はじめから次回作に繋げる意図がミエミエの映画作りでもあります。


最近読んだ本
「ハリー・ポッター炎のゴブレット」

 こちらは大ベストセラー、生徒に借りて読みました。今回は前後編に分かれ、かなり長め。前作がよかったのでプレシャーもあったのでしょう。苦心作と申しておきましょう。掴みは面白いのですが、例によって出足はじわじわ、終盤一気に盛り上げる。「悪の復活」というこのシリーズを支配するヤマ場でもありますが、トリックが今回はやや小振りで、恐怖感にも欠け、余韻にも乏しい、こちらも次回作に期待しましょう。
絵本 「夢の江戸歌舞伎」  岩波書店

 最近もらって一番うれしかった本。緻密な独特の絵で知られる一ノ関圭さんが江戸の歌舞伎小屋の再生に挑む。資料に欠ける点は想像力で補い、魅惑の1冊となっています。「船乗り込み」(本当は江戸では行われないけれどー大阪が本場)から千秋楽の打ち上げまで、芝居の一月を追う。小屋の造り、舞台の構造はもちろん、役者や観客の衣装まで細かく描きこんである。毎晩寝床で眺めて、歌舞伎の夢を見たいと思って眠るのですが・・・。


中国への旅  8

 1999年1月26日、姪殺害の犯人逮捕の報は香港の新聞から。犯人は唐なにがしという楽山郊外出身の農夫ということ、28歳とか。報道官制は破れ、日本の新聞も報道を始める。その後も事件解明の情報はなく、外務省はあてにならず、裁判も開かれたと聞くものの、内容も知らされず・・・。おまけに、これ以上事件に深入りするなと外務省から高圧的に釘をさされ、反発すると、建設省(当時)を通じて兄の仕事(建築関係)に圧力をかけてくる始末。

 ほとほと疲れ、憤り、悲しみも募る一方の姉は、総理夫人(当時は小渕さん)に訴えると言いはじめました。同じ女性なら、この苦しみを理解してくれるだろうというのです。はじめ、何を言い出すのかと思いましたが、直訴するなら、外務大臣(当時は高村さん)か首相ではないかと答えると、じゃ、小渕首相に手紙を書くといいます。姉はかなりエキセントリックになっていました。あなたも何かして欲しいというので、それじゃ僕はメールを送るわ、と言って、翌日、姉が書くであろう内容の補足めいたものと事情説明、そして、真相解明に向けて、外務省のしっかりした対応を要望する旨の文章を、当時の首相官邸のHPの投稿欄に送ったのです。

 変化は数日後ありました。夜、帰宅すると「あなたさっき外務省から電話がありました」と嫁ハン。会議があるので深夜ですみませんが再度電話するとのこと。11時頃、外務省からかかって来た電話は、姉からは聞いてない名前の人。首相官邸から指示がありましたのでと丁寧な言葉遣い。うかがっているお名前とちがいますが・・・と問うと、担当が替わりましたとの返事。それでは改めてお名前を確認させていただきますというところから始まる。きちんと対応しますという言葉を受け、その内容を改めて首相官邸にメールで報告する。その返事が来る。当時「ブッチホン」という言葉があり、マメな人とは思っていたが、官邸のすばやい対応には感心、感謝。もちろん当時、訪中を控えていたという理由もあったのでしょう。(北京と大阪を含む)五輪招致活動が活発化していた時期でもありました。

 とにかく、これを機会に、外務省の対応はガラリと変わりました。しかし、裁判はじめ、すべてスローペースの中国との連絡なかなかつかず、もどかしいことこの上もありません。情報公開などという言葉は中国にはありませんでした。

 そして、姉の直訴状はどこへ行ったのでしょう?とうとう肝心の姉の所へは返事も連絡も来ずじまい。書簡の山の中に埋まっているのか?わたしのメールへの対応で、これで終わったと思っているのでしょうか?複雑な思いのまま月日が過ぎてゆきました。

2002年12月5日

 若い人の、思わぬ急激な成長に、驚かされることがままありますよね。成長は徐々に右肩上がりではなく、だらだらとあるいは水平に見えたような線がいきなり上を向くことがあります。運動で、文章で、ちょっとした発言で・・・そんなとき、ちょっとホッとして、うれしくなります。絶望感に、無力感に苛まれることも多々ありますが、世の中、人間って、日本って、捨てたもんじゃないと思うのです。

 そんな思いをすることが2,3続いて気持ちのいい師走のはじめでした。

 15年前の教え子達が10人ほど集まって、定期的に開く勉強会。今回は12月1日に千代田で。一応、テーマを決めて私が授業らしきものをする(今回は「源氏物語と敬語」)のですが、楽しみはその前後の情報交換。海外生活の経験豊かなもの(ニューヨーク帰りなのでテロ事件に質問が集中)やコンピュータの専門家、農業青年(彼の農薬の話も興味深かった)、煙草屋と多種多彩な人物が入り乱れて、侃々諤々、こちらが勉強になります。それにしても、30歳なのに専門的知識を持ったり、外国語に堪能だったり、今の若いヤツってすごいと思います

もっと京都   晩秋の修学院離宮

 11月28日、創立記念日に狙いを定めて、8月に申し込んだ拝観願いがやっとパス(昨年はハズレ)、10年ぶりの修学院離宮です。今年は秋が早く逝き、紅葉も終わっているところが多かったけど、さすがに比叡山麓の大山荘は広く、多種な楓のせいもあり、見事な紅葉ぶりでした。

 刈り入れの終わった田の中の松並木を歩き、トンネルのような大刈り込みの中を一気に登って、振り返るとみんなわーっと歓声を上げる。京都市内を左手に、愛宕、北山を借景にして、広い池とその周囲を彩る黄葉、紅葉・・・黄とそれから赤に変化してゆくグラディエーションは、たとえようもなく見事です。山の清水をせき止めて作られた池は、200メートルの高く長い石垣に守られているが、3段の石垣は60種の樹木による深い刈り込みに覆われ、人工の跡を見せない。晴天に恵まれてよかった。

 この莫大な費用と手間をかけた豪壮な山荘に、主の後水尾上皇は40回(40日ー常に日帰りー警備の都合か?)しか来られなかったというのはもったいない。そして明治まで200年近く眠っていたなんて・・・。

 目の前の山は宮内庁が買い取ったけれど、その向こうの山はいつ開発されても仕方ないと、案内係りの方の心配顔。京都最後、最大の借景名園かもしれません。

 この日一日の参観者は40人5組で200人。これで今年最多とか。次回は初夏か、真冬、雪の頃に来て見たい。



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