Kan-Kan の雑記帳


2003年1月30日

 羽曳野にもまだ雪が残っています。本格的な寒波。一冬に一度や二度はこんな寒さがあって雪が積もるのもいいですね。通勤は大変だけど。通勤時、いつも歩いて通リ抜ける小さな集落(大和川近くなので移転して300年くらいか)の中の、たった一軒の魚屋兼仕出屋さんが、1月はじめから店を閉めている。なんにも表示はないし、心配していたのですが、一昨日、シャッターが半分開いて、人の気配がありました。人といっても、初老の元気なおっちゃん一人だったので、入院などではと気を揉んでいたのです。昨日はまた閉まっている。通学の小学生に毎朝声をかけていた元気なおっちゃん、どうしてはるんやろ?

カブキ大好き

 暮れの京都南座、顔見世興行。一幕目は「木村長門守」(きむらながとのかみ)。大阪冬の陣の大阪方の和睦の使者として、狸親父の家康と堂々渡り合う美男の若武者。「血判取り」と呼ばれる一幕で、りりしい若者を片岡我当が発声も変えて、頑張って演じます。長袴のさばきも美しい。でも19歳はちょっと無理。気の毒やけど、これは若手の愛之助あたりにやってもらいたかった。

 余談ですが、個人的には講談などで語られる「木村長門守重成」は好ましいヒーロー。夏の陣で見事な最期を遂げるのですが、口に香を含み、耳と鼻に薫薬を詰め、兜に香を焚き染めて戦に臨んだというその姿勢。家康との二度目の対面はその美しい首だったのです。

最近読んだ本

「大往生」 永六輔

 「老い」「死」を市井の人の言動から考える。「まず義理との付き合いを捨てる、これで健康が保てる」「義理と人つきあいが大切、これが健康法」。矛盾した言葉のそれぞれに真実がある。最後は作者が見送った90歳の父の文章で締めくくられる。

お父さんの人生訓は、「無理はしない、静かに生きる、借りたら返す」

絶句は

「山茶花や妻を頼りの 昨日今日」
「浅草や 酔えば女は 足袋を脱ぎ」  見事です。

「まだ見ぬホテルへ」  稲葉 なおと

 インドのハウスボート、シンガポールのラッフルズ・・・行ってみたい世界のホテルを泊まり歩くうらやましいレポートだが、一流の建築プロデューサーらしいが、文章はうまくない。自分の個人的体験を綴って、肝心のホテルが見えてこない。せっかくそこへ行っているのに。

「僕の体は考える」  市村 正親

 舞台に生きる役者のひとり語り。劇団「四季」の看板俳優から転進して、古典から大衆演劇までいろいろやりまくっている。1年中、舞台に立ちっぱなしなのは、よほど好きなのです。新劇俳優らしくないのは西村晃の付き人から芸能生活を始めたというルーツに関係があるのかもしれません。彼の舞台は「エクウス」「オペラ座の怪人」を見ていますが、たしかに「舞台で裸にもなれる、それを役として見せられる」数少ない俳優ではあります。そのための精進がすごい。

「老いの語らい」  沢村貞子

 この人のエッセイのファンでしたが、このインタビュー集で見えない面も見えて、よかった。最後を過ごした相模湾を見下ろす住まいでのインタビューが中心ですが、聞き手が永六輔、山田太一など一流なので、深い話になる。昔の下町の美風がここに残っています。そして、せっかくの子ども堕ろしてまで、再婚した大橋氏を支えるために尽くす。うーむ。ちょっと献身的すぎると思うのは昭和生まれのせいでしょうか? 

2003年1月25日

中国への旅 21

 (小学校を訪問し、思いがけない歓迎に驚き)振られる旗と歓声の中をおどおどしながら潜って、20メートルくらいの坂道を登ると小さな校門がある。門を抜けて出た、中庭はテニスコート一面くらいの広さ。それを挟んでコの字型に平屋の校舎が取り囲んでいる。やがて中庭(兼グランドらしい)に整列した小学校1年から4年までの生徒、約60人くらいが、先生の指示を受け、真っ直ぐ前を向いて、緊張している。もちろん私語はなし。

 何人かの目を捕えて笑いかけると、恥ずかしそうに微笑む子もいる。校長先生(31歳とか、男性)のあいさつやらなにやらあり、促されて義兄、そして続いて姉が挨拶に立った時は心配しました。でも、思いのほかしっかり話しました。姉が心のトンネルをひとつ超えた瞬間だったと思います。

 整列している生徒の周りを保護者らしき人々が囲む。その間に小学校の年齢らしき子どもが何人かいる。曹さんにたずねてもらうと、経済的事情で学校に来られない子ども達らしい。今日は休日なのに、我々のために臨時登校となり、その子たちも見物にきているとのこと。セレモニーが終わったあと、20人ほどの生徒が並びなおしている。図書館に寄付した費用の残りを、この子達の就学、奨学資金に充てましたということ。もちろん姉夫婦に異存はないけれど、みんなの前で紹介するのは、日本の感覚としては馴染まない気もしました。ひとりひとりと握手をする。目が澄んでいる。それが単純にいいことかどうかわからないけれど、やはり新鮮な感動でした。

2003年1月22日

行く人来る人

モーリス・ギブさん

 「ビージーズ」のボーカル、ベース、キーボード。独特の高い歌声、53歳は若い。「マサチューセッツ」や「若葉の頃」は僕等の青春の歌でした。

大道珠貴(だいどうたまき)さん

 今回の芥川賞受賞者。36歳。「しょっぱいドライブ」は「文学界」12月号に掲載されたばかり(読んでいません)。ちらっとテレビで拝見した限りですが、クールでなかなか個性的な作家の誕生のようです。楽しみです。でも記者会見で「じいさんばあさんにも読んでもらえる作品を」と言っていたのはいただけない。やはり「おじいさんおばあさん」というべきでしょう。

湖月わたるさん 檀れいさん

 宝塚星組の新しいトップスターは2人とも専科から、湖月さんは宙組のホープから専科を経て、満を持してのトップ。檀さんは月組トップ娘役から専科を経て。娘役のこういう経歴は歌劇団初では。最近の宝塚の人事はややこしい。組生え抜き(暴力団みたいですがー笑ー)が少なくなったのは少し残念な気も。トップを外から持ってくることで各組の個性が薄れてきたように思います。 

2003年1月19日

 藤井寺市民会館で開催中の「山下清原画展」に行ってきました。原画を見たのは初めてで、その精密さに圧倒されました。彼が少年期を過ごし、貼り絵を教わった養護施設「八幡学園」では、ハサミを持たさなかったため、手で千切って糊で貼っていったのですが、すごいテンポとスピードでの作業だったそうです。

 酒乱の父を亡くし、二度目の義父も酒に溺れる悲惨な家庭生活。幼い者へのいたわりや、やさしい視線はありますが、母や父に対する感覚は絵にはありません。貫くテーマは花火、桜島、そして虫・・・題材と虫の取り合わせも面白い。満開桜の枝に蜂が一匹止まっている。魚の骨に、ハエが・・・。放浪の果てに、画家としての名声を得、そのために群がってくる善意、悪意の人々。二度と旅に出ないことを誓わされ、その中で、写真で見る表情が暗くなっていったように思います。それにしても、色彩感覚、構成のすばらしさ・・・。

 あれこれ思うところが多かった。ともかく見ごたえのある展覧会ではありました。

中国への旅 20

 今回(1999年12月)の訪中の目的は、公安との話し合いや、慰霊のほかに、寄付した図書の現状を見たいというのがありました。その趣旨が伝わったかどうか、返答をもらえないままの訪問だったので、不安がありました。それに、日程的に、土、日で学校は休みです。受け入れOKの返事(とにかく手続きが大変なようで)は楽山に着いた日にもらえ、2日目の朝に人民政府(市)の迎えの車と共に出かけました。楽山市内の小学校というので、大阪市内くらいのイメージだったのですが、大違い。大阪府くらいのスケールなのです。延々と走り続けて、舗装道路も途切れ、細い凸凹の田舎道をものすごいスピードで駆けて行く。

 あちこちの軒下や木陰で麻雀をしている人たちの姿を見かける。もちろん働く人々も。畑仕事に作業着というのがないようで、ブレザーあり、ワイシャツありいろいろ。すれ違ったオートバイの後部座席ぐたっとした豚が、くくりつけられていた。道が更に狭くなり、勾配も出てきたところで止まる。目的の小学校に着いたらしい。車を降りてびっくり。たくさんの小学生、村人が集まっている。200人くらいか。先生らしき人の指示で、小学生がさっと列を組んで旗を取り出す。まさかの「熱烈歓迎」が始まったのです。

2003年1月18日

 相撲の琴ノ若対時津海。どちらも色白で男前。黒いまわし、髷がよく似合う。初場所らしい相撲でした。貴之花と相撲協会は確執があるのでしょう。ここ数年、出る出ないでいろいろありましたが、建前(横綱の威信とやら)と本音(営業)の間で翻弄されて、貴之花が気の毒になってきました。昨年の春場所で見た彼は、土俵入りも見事で、やはり華がある力士と感心したものでした。ここまでくれば、自分の納得いく相撲人生を送ってほしいと思います。

 「春隣(となり)」-俳句の季語で、立春近い今頃の時候をさすのでしょう(「研ぐほどに 刃物の匂い 春隣」)が、ふと「春と成り」ともとれるのだろうと気づきました。日本語の表現は奥が深い。

中国への旅  19

 姪は北京の大学で学ぶかたわら、ユネスコにボランティアとして参加、主に中国の農村部の小学校に学用品などを贈る活動に参加していました。犯人は楽山市郊外の農村出身で、借金を抱え、春節(旧正月)を迎えるための出稼ぎに来ていたのです。中国を愛し、中国の人々を信頼したばかりに、逆に悲劇を招いてしまった皮肉ー姉夫婦の悲しみと怒りを更に募らせたのは、遺体引取りに訪れた時、公安の幹部が口走ったという「無学で貧しい農民がやったことだから・・・」という一言でした。

 姉夫婦から中国に寄付したいという話を聞いたとき、驚きました。あれだけ辛い目に遭わされてこの上なんでと思いました。最初反発しましたが、話を聞いて納得しました。姪の悲劇を繰り返さないためにも、彼女の遺志を継いで、貧しい中国農村部の教育に寄与したいというのです。自分にとても出来ない、尊い気持ちだと思いました。少しでもお手伝いできればと、京都で一緒にユネスコの人たちとも会い、調査、検討、相談の結果、中国西部の学校の少ない地区に分校をひとつと、姪の最後の地、楽山市内の小学校に姪の名前を冠した図書館を贈ることにしたのです。 

2003年1月15日

 この緊迫したややこしい時期に、首相はなぜ靖国神社参拝?松が取れない間にということなのでしょうか??どういうタイミングの計り方をしているのか、真意が読めず、また、説明も不足しています。

 美智子皇后のご実家取り壊し、いろいろ沙汰されましたが、皇后の意思は尊重すべきだし、納得できます。見世物にする必要はありませんし、もっと保存すべき建築物も他にたくさんあるでしょう。

 深作欣二監督の死は予想されたものでしたが、やはり感慨あり。名監督というより、「元気なおもろい活動写真屋」だったと言ってあげたい。昨年の荻野目慶子さんの「女優の夜」でも騒がれて、公私共ににぎやかな一生でした。作品が未完成で、息子が跡を継ぐというのはどうもねえ。後継監督は深作組におらんのか。ボスの後を息子が引き継ぐなんて、どこかの国みたい。

中国への旅

 このシリーズ12で、公安との話し合いに領事が駆けつけてくれたのは「武漢」ではなく「重慶」からでした。訂正してお詫びします。亡くなった姪の中国の友人がHPを見て、指摘してくださいました。インターネットの威力を感じます。心して、書き続けようと思っています。 

2003年1月12日

 新年から、体調のよいのに任せて、いろんなとこへ顔を出してしまう。彫刻家である友人のグループ展の、オープニングパーティが、茶屋町の画廊で某夕開かれたのに友人と参加。20人くらい。彫刻家以外は画廊の方と私とコレクターが一人。やはり個性的な人が多いので面白い。みんな流石にお洒落。

 左隣に座った画廊のマダム。お正月はどちらで?と問うと、モンテカルロで6日間、それからニースへとか。でも、カジノはドレスが面倒でとおっしゃるので、やはり、叶姉妹のように胸を出すのですか?とわざとつっこんで笑いを取る。肩でしょう?ときちんとにこやかに返してくれる。フランスへはしょっちゅう?いえ、若いときには4年ほどパリで過ごしたのですが・・・えっ?子どもさんは?ええ、ばあやとお手伝いさんが・・・うわー。右隣のおっちゃんに、お正月は?昨年秋からバリ島の別荘に行ってまして、昨日これに合わせて帰国したんです。バリ島の治安や酒の話をしばらく聞く。夕陽があまりにすばらしいので帰れなかったんだって。行ってみたいなあ。その右隣のしぶい紳士は?イタリアで10日ほど、列車で移動しながら美術館めぐりです。イタリアへは?ええ、この10年で3回ほど・・・。用意されていたビールや寿司に加えて、それぞれ持ち込んだ銘酒やおいしいワインがあって盛り上がる。

 そのあと阿倍野の路地裏のいつもの居酒屋で、友人相手に、今日のみんな、金持ちやなあ、住む世界がちがうわと呟くと、みんな自分の事は語らないんだよ。君があれこれつっこむから、みんなそれにつられて話したんだ、僕も初めて聞いた話が多くておもろかったと言ってくれる。うーむ。芸術家の集まりということで好奇心に駆られて、申し分けないことしちゃったかなあと少し反省。


中国への旅 18

 中国行きの目的は、姪の慰霊と事件の真相解明、そのための義兄のサポート、姉のケア、そして事件以来スポイルされがちだった甥の話を十分聞いてやることでした。真面目な姉夫婦と違って、不良のおっちゃん(私の事らしい)はなにかと話しやすいらしい。

 姪の中国の友人だった曹さんを案内人にして、3人で夜の楽山の街に繰り出す。とにかく毎晩、祭りのような人出。ホテル近くの公園(テニスコート5面位の広さ)は次の3グループに分かれてすごい喧騒。社交ダンス、太極拳、そしてマスゲームの練習。その中に入って、太極拳の真似事をしていると、高校生みたいな女子グループから声を掛けられました。

 にこにこ笑って(こちらは最初警戒)、純朴で幼い感じでしたが、聞いてみると、市内の師範大学の学生との事。外国人を見るのは初めてという子も。日本について知っていることはと問うと、車、ドラえもん、コナンなど・・・。中で一人が「首相(当時は森さん)がだめなんですって?」やっぱし・・・。ちょっと恥ずかしい。やがて彼女達の関心は、私や甥より同行の曹さんにあることに気づく(ちょっとがっかり)。どこで、どうやってそれだけ日本語を身につけたのですかという質問が相次ぐ。憧れの眼差し。すごい向上心。記念撮影して別れたけれど、爽やかな若者達でした。 

2003年1月11日

 この季節は鳥にとって餌の乏しい時期。毎朝、門柱の上に四国から持ち帰った屑米(籾摺りの段階で落ちてきた、割れたり欠けたりした米粒片)を、夜遅く、一握り置いておく。はじめは1,2羽来た雀が、今は10数羽に増え、早朝からかまびすしいこと。それでも不思議なことに、こちらが新聞を取りに出て、新聞受けから新聞を抜き取り、パチンと閉めるまで、向かいの家の屋根で並んで待っている。その後、ブラインドの隙間から眺めていると、一斉に降りてきて、入れ替わり立ち替わり、10分ほどかかって見事に食べ尽くしてゆく。最近結構まるまるとしてきた雀が多くなってきた様に思うのは贔屓目か。甘やかし過ぎてはいけないしなあ。森鴎外「舞姫」の中の冬のベルリンの描写で、朝、飢え凍えた雀が路上に落ちて死んでいるというのがあって、それが妙に頭から離れません。

ビデオ世界遺産

プラハの歴史地区

 チェコの古都、ヴルタヴァ河に囲まれた古い街並み、見事なアーケードと商店街は縦横に通り抜けられる。カレル橋には立ってみたいけど、これは無理だろうなあ。その前に行きたい街が多すぎる。

ワルシャワの歴史地区


 ポーランドの美しい都は、第2次世界大戦の末期、占領していたナチスドイツが、撤退の際に意味もなく、いや破壊するだけのために8割以上破壊された悲劇の街。それを戦後、徹底して再現したポーランド国民に敬意を払うのみ。すばらしい古都を自ら破壊してゆくどこかの国に住む者には見るのが恥ずかしい。

ウ゛イエリチカ岩塩坑

 ポーランドの岩塩鉱山。9層300キロに及ぶまさに迷路の坑道。巨大な地下教会、塩のシャンデリア・・・地下空間ダイスキ人間としては心騒ぐ場所です。

2003年1月10日

 10日戎。行きたかったけど、すごい人出という情報と、前夜2時過ぎまでかかった仕事の疲れで諦めました。仕事がたまったのは、もちろん新年会のせい(笑)。近年、忘年会が分散、新年会も同じくらいの回数があります。仕事も、賀状も、宴会も今が人生で一番多い時期なのかもしれません。(仕事の量はピークを超えたような気もするけれどー5年くらいまえが一番多かったように思う)。昨年11月くらいから、心身共に楽になって、毎日が充実していて愉しい。「これが人生の盛りなのかな」あとつぶやくと、いや消える前の蝋燭のような、沈む前の夕日のようなものだよと、悪友につっこまれる。ならばその残照を今のうちにもう少し楽しまなきゃと、明日もテニスと宴会に繰り出します。

行く人来る人

ジョージ・ロイ・ヒルさん

 ダンディで洒落た映画を作る才人でした。「明日に向かって撃て!」「スティング」・・・。ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードの魅力を引き出し、スターにしたのも彼です。裕福な家に生まれ、才能に恵まれ、それが素直にいい方に開花していった稀な例なのかもしれません。もちろん非常な努力もあったでしょうが、不遇な時代と言うものが無かった・・・晩年のパーキンソン病は大変だったかもしれないけれど、手厚い看護を受けて81歳で往生、これは幸せな人生といえますね。

今日知った言葉

 「シー・ラング」−「海の肺」-北極海の夜明け、水夫の前に現れる茫漠たる物体、それは霧に下に膨れ上がる凍りかけた海水の塊ー氷なのです。想像力を刺激されるなあ。世界は広く、奥が深い。

2003年1月3日

 あけましておめでとうございます。

 2日の午後、中国より帰国しました。四川省楽山での3日間、霧に閉ざされた街は、それはそれで素敵でしたが、太陽も星もなく、帰国して仰いだ青空と太陽にほっとしました。

 でも、収穫の多い旅でした。2年前とほぼ同じ行程でしたが、80歳の父も無事に歩けたし、姪の最期の地を訪れることもできました。詳細はいずれ「ふたたび中国への旅」というコーナーで報告します。

 今日はまずお願いを二つ

 姪の遺志を生かそうと、姉夫婦は中国、楽山近郊の農村部の小学校へ図書館などを寄付してきましたが、今回、その学校へ再び訪れました。


 しかし姪の名前を冠した図書館は出来て、本も少し入ったのですが、小学生には難しい本が多く、また自由に見られる環境ではありません。前回は鍵がかけられて、厳しく管理されていましたが、今回は週1回の閲覧が認められていました。それを毎日、本が読める環境にしてほしいとお願いして、校長も了解してくれましたが、いかんせん、本がありません。絵本など小学生低学年に向けたものがあれば送ってほしいとのこと。(ちなみに小学校は日本でいう4年生まで。5,6年生はも少し遠くの学校へ通っています。それでも、6キロの道を2時間近くかけて通ってくる1年生もいます。)もし、もう読まなくなった絵本などあれば(もちろん残すべき大事なものは除いて)提供していただければうれしいです。日本語のものでもちろんOK。絵や写真があるものが望ましい。こちらでまとめて送ります。よろしければいただきに上がります。

 もうひとつ。成都では衛星放送でNHKが見られましたが、楽山では映らず、紅白歌合戦は見られず仕舞い。ニューイヤーコンサートも。どなたか、録画しておられたら貸して下さい。



雑記帳バックナンバー表へ