2004年8月29日
夜の歌番組で久しぶりに島倉千代子の「東京だよおっかさん」をフルコーラス聴いて、涙が出ました。2番の歌詞で「九段坂」(靖国神社)が歌われているので、NHKではずっと自粛していたらしいのですが、首相や閣僚の参拝問題や近隣諸国との関係は別にして、この歌に歌われているのは、息子や兄を失った悲しみであり、厭戦の思いです。
やさしかった兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっかさん
ここが ここが 九段坂
会ったら 泣くでしょ 兄さんも
盆に帰省中、8月15日の昼ごろ、近所の小父さんが、外出着で帰って来たので訊いてみたら、松山の護国神社にお参りしてきたのだと。ずっと毎年この日に戦没者慰霊祭があるのです。小父さんもお兄さんを南方戦線で失っているのです。亡き人を悼む純粋な遺族の思いが、どこかで捻じ曲げられていないか・・・過激な都知事の発言も気になります。村のはずれに並ぶ戦士墓(独特の尖ったかたちをしている)は今もきれいに掃除されていますが、こんな小さな山の村からも若者が駆り出され、帰って来なかったのだと、いつも前を通るたびに、悲痛な思いに駆られます。
中国への旅 3 その7
長安一片月
夕食は餃子尽くし。それをいただきながら、ナイトシアターで唐時代の歌と踊りを再現したショーを見る。期待していなかったので、感動。とにかく美男(ジャニーズ・ジュニアなんて目じゃない!)美女(我がタカラヅカも負けそう!)の一群が華やかな音楽と舞踊を繰り広げる。民族楽器の演奏も見事でした。終われば外は雨。ホテルは三ツ星だけど、中国風の造りの広大な庭を持つええとこで、夜半、窓から眺めると厚い雲の切れ目から半月が望めました。漢詩の一節(オリジナルでは満月でしょうが)が浮かんできて、あーやっとイメージに合った中国を味わえたなあと思いました。
長安一片の月
万戸衣を打つの声
秋風吹いて尽きず
すべてこれ玉関の情
いずれの日か 胡虜を平らげて
良人遠征をやめん
2004年8月25日
夕暮れ時に、道端でかすかに震えて咲き始めている夕顔。誰に見られなくても、きちんと咲いて、潔く消えて行く。古人に言われなくても、それは人生そのもの。こころ打たれる情景です。
常駐している教科準備室のブーゲンビリアも咲きました。でも、見るのは私一人。もったいなくて、廊下を通る者に声掛けて、見てもらっています。
よくする忘れ物。携帯、時計、眼鏡・・・。いつもひっそりと、物陰で、トイレで、新聞の陰で、見つけてくれるのを待っている。最近、見つけるたびに切なくて、ジンとくるのは年を取ったせいでしょうね。
中国への旅 3 その6
夕食までに時間が少しあったので、大雁塔に登る。西安のランドマーク的存在。玄奘がここから天竺に旅立ち、17年後に戻ってきたところ。周りにビルがないのがいい。空にすっくと聳え、最上階からは市内も、郊外も見はるかすことができる。はるか南の山の向こう(西から廻ったのですが)の天竺に行ったと思うと、その距離、その年月、苦難・・・胸に来るものがありました。
2004年8月22日
日曜朝の遅めの目覚めはNHKラジオ「音の風景」。ポンポンポンと蒸気汽船の音、霧笛。広島「音戸の瀬戸」を行き交う船の音から。ここのフェリーは所要時間2分。全国一の短いものなのだそうです。
ついついオリンピックを見てしまいます。
10年前、富田林イトマンスイミングスクールで隣を泳いでいた(こちらは成人酔っ払いコース、あちらは選手育成コース)奥村クン(近大)のがんばりに感激です。あのプレッシャーの中で必死の力泳。男子メドレーリレー銅メダル、立派!若い人に絶望することも多かったけど、オリンピックを機に見直してみようかと思っています。
済美高校の活躍に地元愛媛の反応はひややかです。数年前の部設立と同時に、億単位の金をかけての専用スタジアム建設、全国からの選手集め(地元は鵜久森選手ひとり)が、野球の盛んな県民性のプライドもあって反発を招いたようです。わかります。いつもはテレビで応援している父がテレビを消していましたもの。さて、今日の決勝はどうなるでしょう?
栄冠は駒大苫小牧に。北海道に優勝旗が渡ります。
最近読んだ本
「ピカレスク」
-太宰治伝 猪瀬直樹
おもしろい評伝でした。これまでの「弱い人物像」のイメージを覆し、太宰を狡猾でしぶとい「悪漢」として捕らえます。度重なる心中未遂も自殺未遂もすべて計算の上、死ぬ気はなかった。厭世は生きるエネルギー・・・。なるほど。最期は山崎富栄に押し切られたのではと推察。ついでに、太宰の恩師の井伏鱒二まで断罪。二人の亀裂もきっちり捕らえます。人間は光の当て方だと思うけど、これはこれで非常に興味深く、文学史的にも意味があると思いました。文章もうまい。
2004年8月21日
信太山の府立弥生文化博物館へ小灘一紀絵画展を見に行く。日展でいつも気になっていた人。1昨年度の「めざめ」に新鮮な感動を覚えました。期待して出かける。信太山の駅から黒板塀の続く路を7分。立派な博物館の2階。作品は多くない。清潔なエロチシズム、青春群像が中心と思っていたら、老醜や風景もきちんと描いておられます。でも、つぼに嵌った代表作以外は、美しいけど深くない感じがしました。24日に展示変えをするそうで、もういちど行きたいと思ってはいます。9月20日まで。
引き返して新大阪へ。ピアノメーカー、「ベーゼンドルファー」のスタジオで、友人のピアノ試弾会。ブラームスのコンチェルトの2番の二つの楽章を間近に聴く。音の迫力はすごいけど、うるさくない。ピアノの音も響きもいい、友人も力演。ドラマチックな曲を堪能しました。来春3月の八尾プリズムホールでのコンサート本番が楽しみ。2時間の使用料1万円は安いのかもしれません。
行く人来る人
徳永善也さん(ドラマー 舌癌 40歳)
チェッカーズのドラマーで「クロベエ」として親しまれました。おしゃれなグループのちょっと地味な子でした。カラオケでよく歌ったものです。若すぎる死。
エルマー・バーンスタインさん(映画音楽作曲家 死因不明 82歳)
「大脱走」のテーマが有名ですが、個人的には「荒野の七人」が好きでした。リズミカルで、ダイナミックな音楽でした。
最近読んだ本
「ひとりごと」 市原
悦子
名女優の語り。快活で芝居の好きな少女が、努力もあって一気に舞台女優として花開く。俳優座の看板女優だったのに、がんばりすぎて(?)息切れして退団。しばらく休んだ後、映画やテレビでもすばらしい演技を見せるけど、やはり舞台女優であってほしい。近年、だんだん舞台出演を増やしているのはいいことです。養成所時代の同期生の演出家が夫というのもいい環境。
名優イングリッド・バーグマンの例を引く。晩年、癌の治療の副作用で美しかった顔に大きな痣が出来たバーグマンは、「顔に痣のある女の役があったら下さい」と監督に訴える。その心意気を継ごうとする市原悦子は森光子と大竹しのぶの間を埋める舞台女優です。加藤治子、小川真由美、麻美れい・・・中堅女優ががんばってこそ、舞台は生きます。
中国への旅 3 その5
西安の城壁。市内を巡る高さも幅も12メートルの城壁は重量感あり。幅が12メートルというのがすごい。でも、これは唐の時代のものではなく、明の時代のものなのです。古代のものは残すのが難しく、その上に人々の生活が築かれてゆく。今回の旅で痛感したのもそれでした。奈良や京都はまだましなのです。
それでも、南側の城壁の上を電動カートでドライブすると、その威容に圧倒されます。はるばると伸びる城壁が真四角に城内を形成して、そこがやはり現在も街の中心。碁盤の目の街並みに並木が美しい。王宮はもうないけれど、南に大雁塔が見える。場所は少しずれるけれど、長安に都を偲ぶよすがにはなりました。それにしても、気の遠くなるような長大な建造物です。日本は山や川で防げたけれど、この大平原の中では、このような堅牢でスケールの大きな壁を築くより他はなかったのですね。
2004年8月20日
暑い夏です。昨日もビールを買いに行くと、ノンアルコールビール(考えてみると変な言葉ですが)が50円で売られている。確かにこの暑さ、半端なものは飲めねえや。でも、50円とは・・・。店の兄ちゃんに訊いてみると、こうでもしなければ捌けないのですとの返事。納得。思わず1本買ってしまった。でもやはり、マズイ!
胸と腹の傷がまだ癒えません。汗が沁みて痛い。それを見て笑う妻子にまた、腹が立つ。
イチローの夏の快進撃に驚嘆していたら、今日デッドボールを受けたとか。心配していたのですが、やはりこうなるのですね。イチローが大リーグで行く決意をした一因に、某チームのデッドボール攻勢があったということですが、スポーツにも悪意が潜むことは意識しておくべきですね。オリンピックでも様々な駆け引きがあるようで・・・。
夕顔がまだ咲きません。この台風が過ぎたら、秋が来るのでしょうか。
中国への旅 3 その4
兵馬俑坑(へいばようこう)
これが圧巻でした。20世紀の大発見といわれた秦時代の地下の兵士と軍馬の群れ。立派な体育館の下を埋め尽くすその量は圧倒的で、この付近の村でたまたまおじさんが井戸を掘っていたら傾いた先頭の兵の頭に出くわした・・・もし、鍬がもう数センチずれていたら見つからず仕舞いだったかもしれない・・・まさかその奥に数千の兵馬俑が埋まっているとは思わなかったでしょうが・・・。その井戸のあともあり、発見者の農夫の方もたまたま訪れていて、見学者からサインをねだられていました。
すべての人馬が東を向いているのも壮観です。あの時代の敵は東から来たのですね。それにしても、まだ発掘も修理も未完成。それも作業も中断中の気配。この国の底知れない遺跡の量とゆったりしたペースを感じました。
ここの観光客の数は半端ではありません。世界各国の人々、言葉が溢れかえって、それも迫力、また、展示館の門の前に群がる記念品売り(手に手に兵馬を模したレプリカを持っている)の数も、ものすごいものでした。「不要」(ブヨウ)を繰り返しつつ、切り抜けると同行の仲間とはぐれていました。
2004年8月17日 その2
行く人来る人
中島らもさん(作家 脳挫傷 52歳)
いつかはこうなると思っていました。個性も才能もある人やったのに・・・。若くして認められ、劇団、創作、コラム・・・と幅広い活躍がかえってストレスを高め、アルコールや薬に流れていったのでしょうか。いたましい最期です。
渡辺文雄さん(俳優 急性呼吸不全 74歳)
俳優としてもですが、知性も愛嬌もある人物としてテレビで活躍していました。「遠くへ行きたい」はなつかしい。
朱里エイコさん(歌手 虚血性心不全 58歳)
何ヶ月か前、テレビに久しぶりに出演、歌っている姿を見て絶句しました。かつてのトランジスタグラマー(古い表現)の面影は全くなく、声も出ないのに、同じファッション、同じポーズで歌っている。勘違いしているよなあ、誰か言うてあげる人はおらんのかいと嫁ハンと語ったところでした。同居の男性がいて、遺骸の発見者ということでしたが、その後どうなったのでしょうか・・・。お母さんは名高い振り付け師で、タカラヅカの振り付けもしておられた。一時代を築いたスターの気の毒な末路を見た思いです。
下条正巳さん(俳優 膵臓がん 88歳)
寅さんシリーズの3代目「おいちゃん」でしたが、もとはインテリな役柄を得意とした舞台人。おいちゃんの役を引き受けて大丈夫かと思ったものですが、すっかり見事に下町の職人役になじんでいました。合掌。
八木柊一郎さん(劇作家 直腸がん 75歳)
演劇全体を愛して、発言して・・・おしゃれで真摯な紳士でした。名女優、杉村春子が最後までこだわったのは八木さんが彼女の為に書いた「柘榴(ざくろ)のある家」の上演でした。
中国への旅 3 その3
始皇帝陵
華清池から30分。世界遺産の始皇帝陵へ。さすがにスケールは大きい。整備されたのが最近ということもあって木々(石榴が多い)は小さく、仁徳天皇陵や応神天皇陵の落ち着きはありません。陵の頂までゆるやかな石段が続き、5分くらいで登れるようになっている。その上でもしつこい物売りがいて閉口しましたが、見晴らしはいい。日本なら、ビルや土産物店が林立するところでしょう。(仁徳陵の傍にはラブホテルが・・・)
ここまで急いで来たのは、秦の時代の格好をした衛兵交代の儀式を見るためでした。陵の下の広場に軍楽隊に導かれてやってきた、一群は、でも、ちょっとみすぼらしく、やる気のない様子。音楽はおもしろい(トルコの軍楽隊の行進曲に似ている)。驚いたのはセレモーニーの最中にもかかわらず、中国人観光客はその前や中に入って堂々と記念撮影をしている。ええんやろか?でも、日本でも運動会で、ずかずかトラックに入ってくる保護者がいるけどなあ。写真は撮らず、売店で絵葉書を値切って買いました。
2004年8月17日 その1
体操男子団体の日本チームの頑張りには驚嘆しました。追い上げられたルーマニア、金メダルが見え始めたアメリカ、前回金メダルで今回メダルを逃しそうな中国が、萎縮してそれぞれミスを連発したのに、その異様な雰囲気の会場に最後に登場して、3人とも見事な演技。特に最初の米田、最後の冨田にはプレシャーがかかったと思います。見事でした。技術だけでなく、精神力でも磨かれていたのですね。本来個人のスポーツを団体でやる、また、技術だけでなく評価しにくい美的要素がある・・・体操団体は難しい競技ですね。
2004年8月16日
盆帰省から、帰阪しました。この夏は、田に稗(ひえ)がたくさん生えたせいで、これに2日費やしました。「稗引き」は慣れない者には重労働。田の泥に足を取られるし、屈めば、穂が目を刺すし、最後頃は立ち上がるとクラクラします。最初は稲との区別がつかなくて、見逃すことも多かったのですが、だんだん葉の形、根の様子(少し浮いている)、茎の具合からなんとか見分けられるようになりました。
朝の6時過ぎから田に行って、10時前に帰ってきて、もうビールを飲んで昼ごはん、昼寝。夕方、陽が少し傾いてからまた働く。こんな生活、新鮮だけど、体がななかなか馴染めない。それに夜のオリンピック・・・。これがこたえました。
やはり、便利な都会の生活に慣れてヤワな体になって来ていると痛感したのが、蝿や蚊。特に蝿は気になって夜もゆっくり眠れません。これには少しショックでした。
庭木の剪定にも2日かけました。一日目、4メートル位の木の上で体を伸ばしすぎて、はしごから足が離れ、選定したばかりの木の上に胸と腹で乗っかってしまいました。「タスケテクレー!」と叫んだら、縁側に飛び出してきた息子は私が「梯子乗り」の格好をしてふざけていると思ったらしい。笑っている。勝手口から飛んできた甥っ子が梯子を直してくれて、やっと地面に降りる。胸と腹に枝が刺さって、今でも汗が沁みて痛みます。 息子に、もうお前のように薄情なヤツには遺産はやらん、命の恩人の○○クン(甥)に全部やる!と言うと、ごめんごめん、出初式の真似しているのかと思った、それに遺産なんて借金しかないやろとほざく。腹が立つ。でも、庭木の選定が終わった後、風がよく通るようになって、涼しくなりました。
「オリンピックがスポーツをゆがめている」といつも言いつつ、始まったらしっかり見てしまう(苦笑)。開会式は見事な演出でした。2002カ国。知らない国もあって、世界地図を持ち出して確認しました。選手入場を待つ間、競技場の外で各国選手団が次々国歌を歌ったそうですが、日本選手団は歌わなかったとか・・・。なにか考えさせられるエピソードでした。それにしても、日本選手、がんばっています。なんとプレッシャーに強くなったのでしょう。
2004年8月11日
今年も帰省します
盆を控えて、帰省の話を持ち出すと、珍しく息子が渋っている。なんでやと問うと、この前、五月に一人で帰った時、おじいちゃん、おばあちゃん、おっちゃん(叔父―私の弟)から、それぞれたくさんお小遣いをもらったんや、もう子供じゃないし、あまり気を遣われるのは却って気を遣うなあ、あ、お小遣いのこと、お父さんに内緒やと言われてたんや、などとぼそぼそほざく。
夜、母に電話して、こんなこと言うとるでと笑いながら話すと、真剣な声で、「それならお小遣いはあげないと約束するから帰っておいでと言ってくれ」と言う。結局、約束が成立して、十一日夜のフェリーでみんなで帰省することになりました。
でも、五月に孫が帰省するという時点で舞い上がって、家の障子の張替えをした母のこと、早速、町の銀行にお金を下ろしにいったという情報もすでに入っています。約束はどうなるでしょう。
くれぐれも「オレオレ詐欺」には気をつけてなと、到着時刻の連絡と共に電話で釘をさす。八十才を過ぎた親が共に元気でいてくれることの幸せ。実感の隣で見守って、世話をしてくれている弟夫婦(特に義妹)には申し訳なく、感謝の他ないのだけれど、来年もその先も、親が健在な限り、お盆には帰らせてもらおうと思っています。
中国への旅 3 その2
華清池
26日は西安郊外の華清池から。西安のある地は「関中」といわれ、古代、ここを抑えれば中国を支配できると言われた東西南北数100キロに及ぶ大盆地なので、はるかにしか山は見えないけれど、30分あまり車を飛ばすと、小高い山の裾に着く。これが中国には珍しい温泉地。大阪では有馬温泉の感覚なのでしょう。
唐の時代、玄宗皇帝が楊貴妃に湯浴みをさせた地として長恨歌に歌われ有名ですが、鄙びた古跡と思っていたら、ものすごい人出にびっくり。近年、楊貴妃の使った浴槽が発掘されたこともあって、たくさんの観光客、温泉にも入れるらしい。その気で準備していたのですが、時間の関係で入浴はカット。でも、確かにだだっ広く乾いた長安の町(今の西安とは少しずれる地にあった、ほとんど遺跡は残っていない)からこの水と山のある地に来て、気持ちは安らいだはずです。楊貴妃の浴槽は大理石の幅10m位の広く深い浴槽。玄宗皇帝のは更に広い。池に柳。そこにヌードの楊貴妃像。これにはびっくり。
2004年8月9日
長崎の鐘
藤山一郎さんの伸びやかな歌声が思い出されます。それにしても、天主堂の上で炸裂した原爆。祈りの空から死の灰が降ってくる・・・なんという皮肉だったのでしょう。
友人からチケットをもらって(なんと1万3千円の席!)、嫁ハンと杉良太郎の公演に行ってきました。正直、彼に興味はなかったのですが、来年で座長公演を「勇退」するというので、伝説の「流し目」「おばさま殺し」を拝見しておこうと、腰を上げたわけです。
新歌舞伎座は超満員。9割が中高年の女性客。
出し物の「遠山の金さん」はご存知の他愛ないお話。新歌舞伎座の機構(廻り舞台がない)もあって、場面転換にすごく時間がかかり、おまけに幕間の休憩が30分、「まだるっこしい」ことこの上ない。杉の出番も少なく、「弁天小僧」のワンシーンなど演じて、歌舞伎のええとこ取りをしても、アピール度はイマイチ。脇役も地味。スターは杉さまひとり。客は彼と子役しか見ていない。でも、これが中間演劇というか大衆演劇というものかもしれません。立ち回りも最小限。59歳、昼夜2回公演では無理ないのでしょう。
芝居が終わってまた30分の休憩。この時間に食堂や、土産物店がかんばるんですね。缶ビール2本飲んでしまう。
歌謡ショーは派手にキザに見せるのかと思ったら、意外に地味に、それも語り中心で客を掴みました。伴奏は嫁ハンにいわせると半分生バンドでしたが、本人が歌っていました。嫁ハンの友人がかつて、シンセサンザーでバックバンドに入っていたそうですが、きちんとリハーサルして、歌って・・・実は、真面目な人なんですね。
語りはもう、ぼやきの連続。大阪弁でしんどいといいながら、腰痛の話、CDが売れない話などで客を笑わせ、乗せる。きっと若い時代と違って、微妙に路線を変えてきたのでしょう。本人も怪我、離婚、再婚(演歌の美人歌手、伍代夏子さん)とあって、観客のニーズも変わってきたはずです。流し目もありません。最後は着物を次々に着替えて、サービス。
やんちゃでちょっと骨のある感じはたしかに年配の女性の好感を呼ぶところでしょう。
それにしても、金は掛かっていない舞台でした。しかし、観客は大満足の様子。よかったわあという声をあちこちで聞きました。
こちらはなにやらうまく乗せられた感じ。「ただ」やから行ってよかったというところです。でも、はるか昔、NHKの「文吾捕り物絵図」で鮮烈なデビューを見たイメージがあるので、大スターにこそなったけど、役者になりきれなかったという感じを覚えて、残念な思いが残りました。
中国への旅 3 その1
7月25日、午前10時過ぎ関空発、晴れた東シナ海を北西へ。海の傍に大連の街が見える。ちょっと函館にイメージが似ている。ここからシベリアに鉄道が繋がっているのだ。いつか訪れてみたい街。北京から国内航空に乗り換えて西安空港に着いたら、バッグが見つからない。嫁ハンが目印に付けておいてくれた、赤いハンカチが無くなっているのです。これは用心しなければ、と気を引き締める。憧れの西安はどんより曇り空。スモッグもあっていつもこのような天気らしい。
市内へ一時間。迎えの車、小さな古いマイクロバスは振動が激しく、運転はものすごく荒っぽい。西安は中国でも一、二を争う交通の戦国地帯らしい。自転車、車道を横切る人、みんな大胆。よく事故が起こらないと何度も思う。こちらは何度か経験があるが、同行の中国は初めての友人は、何度も悲鳴を挙げる。これが「王朝街道の旅」の始まりなのだろうか。
市内にも上半身裸の男の人が多いのに驚く。暑いからだろうけれど、なにやらなつかしい風景。短パンだけの男の子が、もちろんノーヘルメットで女の子を後ろに乗っけてオートバイで走ってゆく。青春しとるなあと思う。
古い城壁が見え、大雁塔が見え、ああやっと憧れの西安に来れたのだと嬉しくなる。
レストランで夕食。最初の中国の夜なのに、店の若い日本語ができるウェイトレスがテーブルに張り付いて、しつこくワインや紹興酒や食器の購買を勧めるのに興醒めする。こちらはゆっくり話も出来ない。それにビールがぬるい。このパターンはこれ以降も続き、ずっと悩まされました。
2004年8月7日
「お浄土には羊羹はあるの・・・戦争はないね」と言って死んでいた13歳の息子を歌った詩の一節が6日朝の新聞に載っていました。(「日本原爆詩集」より「皮膚のない裸群」山本康夫)
せめて最期に甘いものを食べさせてやりたかったことでしょう。涙が出ました。
甘いものをたらふく食べられて、きれいなものを見ることが出来て、テニスを楽しめて・・・
こんな平和な国、ありがたい時代に生きているのに・・・。
8月6日恒例のさだまさしのナガサキでのコンサートを聴きながら、あれこれ思いました。
骨髄バンクに問い合わせたら、登録は50歳まで(20歳から)ということでした。もっと、早くしておくべきでした。
でも骨髄液が足らないのなら、50代でも検査して、使えるものなら使ってくれたらいいのに・・・。友人の移植手術は9月です。
先月の小遣い残り1000円あまりをユニセフに送りました(さっと送らないと飲んでしまう)。礼状が来て、毎月の寄付を勧められました。寄付額は任意ですが、基本的には2000円からとなっています(次が3000円、5000円)。うーむ。ユニセフもやりかたが下手だなあ。今月は厳しいから500円位にしようと思っていたところでした。振り込み料金は掛かりません。ビタミンAカプセル一個2円のはずです。それで幼児一人の命が救えることもある。より多くの人のささやかな善意の積み重ねが大切と思うのです。
サッカー、アジアカップ。日本チームよくがんばりました。アウェーのプレッシャーに負けなかったのは貴重な経験ですね。それにしても
やはりセレモニー時のブーイングというのは悲しくなる情景でした。
2004年8月6日
友人の書家、山本添山の個展が5日より始まりました。例のお節介癖で、画廊の選択から作品の仕上げ、搬入、展示まで付き合うことになりました。私が関わったのはこの数年ですが、個展はこれで12回目。その持続する力に感服します。
展覧会は好きですが、近年は出来上がったものより、出来上がる過程に触れる機会が出来てきて、それがまた大変だけど楽しいということを感じています。
今年は心斎橋のギャラリー、「アングルワン」(TEL06−6245−0071)で、10日まで。よろしければ、お運び下さい。地下鉄心斎橋から東へ徒歩3分長堀通りの一本南の通りです。
第2幕 「俊寛」 最近特に人気の高いもので、先年、物語の舞台となった島で、勘九郎が上演して話題になりました。源平盛衰記のエピソードを近松門左衛門が浄瑠璃に移したもので、清盛に叛旗を翻して鬼界ヶ島に流された俊寛とその仲間たちの話。赦免の船は来るのですが、結局最後に一人島に残ることになってしまう俊寛。その、いらだち、孤独、絶望感を仁左衛門が見事に演じます。彼がやると、ぼろぼろの姿になっても、俊寛のかつての知性まで感じさせるのがいい。女形の秀太郎が珍しい立役(男役)を演じます。見ものは舞台装置。一面の青い浪布、廻り舞台を使って最後に断崖の上で船を見送るシーンまで、効果的に見せます。これもいい幕でした。 |
第3幕 「口上」 これが目当て。大幹部、中村雀右衛門は病気を押して、これだけのために出演して、口を切ります。幹部俳優が揃って挨拶、最後に顔を上げた新海老蔵は、さすがに見場はいい。きりっとして、体つきも引き締まって(お父さんより)、華があります。最後に裃を片肌脱いで赤い襦袢を見せて、お家芸の「にらみ」を見せる。これも決まって、客席は大喜びです。 |
第4幕 「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし) これがねえ・・・。新海老蔵の切られ与三郎を見に来たのに、がっかりでした。舞台はわかりやすく、お富との木更津での見染めから有名な「源氏店」まで丁寧に見せます。最初の登場は白塗りの軟弱な色男。これが出来てません。セリフが半端で、聞き取りにくい。見せ場の「羽織落とし」(お富に一目惚れした与三郎が思わず着ていた羽織を落とし、それに気付かない)も不自然です。対するお富は尾上菊之助、玉三郎に教わったということですが、きれい、うまい、品がある。ある時はハッとするほど玉三郎に似ています。それに見とれて、ま、次の変身後の海老蔵に期待しようと思いました。 お待たせ「源氏店」。囲われものお富と深い仲になり、それが発覚してお富の旦那に捕まり、全身34箇所の刀傷を受けて、海に放り込まれた与三郎が助かって、やくざに身を落として3年後の話。こちらも海に飛び込んで助けられ、江戸の商人に助けられてその世話になっていたお富の家に、偶然、強請りに訪れた与三郎。頬かむりに顔にも刀傷、しがねえ恋の情けが仇・・・で始まる名セリフ。 ここでも海老蔵の華が活きません。テレビに出た弊害か、科白廻しが現代風で周りと合っていない。アンサンブルが大切なのは、どんな舞台でも同じ。結局、脇役の蝙蝠安を演じた片岡市蔵のうまさが際立っただけの舞台でした。 やはり若い役者に世話物は難しい。きっと夜の部の「勧進帳」などはよかったかも知れません。時代物なら形が決まっているので比較的やりやすい・・・。新海老蔵のものすごい精進を期待するしかありません。 |
2004年8月4日
台風が過ぎた途端、空と風の色と匂いが変わってきました。先日プールに入ると、水底に映る光の網目が微妙に薄くなっていて、あー、また秋が来るのだなあと感じた次第です。
それでも、テニスコートの上は真夏の陽射しと照り返し。生徒も教師もへばっています。教師はともかく、生徒がへばるのは、睡眠不足と朝食を摂らないで来るものが多いからです。朝まで歌っていた、遊んでいたという生徒が男女にかかわらず多いのはなぜ?
7月末は中国旅行に6日ほど行っていたので、この書き込みも出来ませんでした。ぼちぼち、7月末の記録から始めましょう。
7月23日に、市川海老蔵襲名披露公演に行きました。2ヶ月に渡る東京公演の評判もよく、期待して行ったのですが・・・。