Kan-Kan の雑記帳



2008年3月31

 『 死に支度 いたせ いたせと 桜かな 』    一茶

あと何回、花見ができるだろうか、としきりに思うのは、加齢のせいででしょうね。今年のさくらは殊更美しく感じます。

帰宅中、寄り道して道明寺天満宮に。石段をぴょんぴょん下りてくる白いものは?近くの道場の柔道の少年達でした。今時、「兎跳び」をしているんだ。

夜桜見物が禁止されて、境内は人影無く、静かで気持ちいい。「神域ゆえ、牛肉を食べること、カラオケ禁止」という立札が笑いを誘う。神域でなくても禁止しましょう。

 毎週末に通っている、家から3分のところにある羽曳野市立図書館の分室。今日で休館になり、再開の目処は立っていないという。隣接する市立小学校の立て直しの資材置き場になるのだそうです。今借りている本も別の図書館まで車で返しに行かなければならない。

こんな形で文化的な、切り捨てやすいところから予算が削られてゆく。市民(私も)諦め顔で異議の声も挙がらない。

大阪府の予算ももちろん大鉈が振られています。無駄は極力排すべきだけれど、必要なものは必要。教育の経費も一律に削減するのは問題です。教育には金も手間もかかるのです。こころの問題を抱えた生徒が急増しているのに、事件も増えているのに、今年度まで派遣されていた「ハートケア・サポーター」(精神科医による生徒の悩み相談室)は来年度廃止。

「旅費」も削減するということで、来年度は、家庭訪問は是非行って下さい、でも、金は出ません、という事態になりそう。教師だから生徒のため、身銭を切って、時間外にでも家庭訪問をすべきなんて論理は、もう通用しません。そして、訪問した挙句が、私も経験ありますが、家にも入れてもらえない、迷惑顔をされる、プライバシー侵害だといわれる時代です。

教師にあこがれて、難関を突破して赴任してきて、数年で夢破れ、退職してゆく若い教師が多いと甥(小学校教師、27歳)が嘆いています。

混沌のその現場も、今日は年度末の区切りの日。転勤、退職してゆく同僚を朝から次々見送りました。仲のよい職場なので、大人数で記念撮影して、校門で拍手で見送る。こういう雰囲気はなかなか他校ではありません。

結婚退職して愛媛に帰り、明日から地元の高校に赴任する若手女性同僚は、大阪暮らしも今日が最後。愛媛から新郎が新車で迎えに来ました。朝から高速を飛ばして明石大橋を越えて来たそうです。新郎も加えて桜の下で記念撮影。涙涙の別れでした。何度も書きますが、本当にさわやかなカップル。愛媛の教育は大丈夫です。でも大阪はどうなる?

3年の大阪での教員生活を終えて、まだ訛りが抜けないうちに両親、愛する人の待つ故郷に帰る・・・。こんな生き方もあったのかなあ、と自身の35年間の大阪生活を振り返る。悔いはありませんが・・。

「帰りはしまなみ海道を走ります」、と明るく言って去ってゆく車の愛媛ナンバーが滲んで見えました。現在、午後9時、もう新居に落ち着いていることでしょう。

みんなに見送られるのが辛いからと、こっそり校門を出ようとする教頭。その気持ちもよくわかる。でも、見つかって、みんな走って見送りに行く、見送りに遅れた人はバス停まで追いかけてゆく。こちらも涙。最近珍しい、いい管理職でした。

寒い一日。花冷えで花が入学式、離任式まで保つといいけれど・・・。

台湾への旅 5

 
 
「国立故宮博物院」
 
 今回の旅の目的、新装なった故宮博物院。中国歴代の皇帝の至宝65万点を所蔵。あの時代状況の中で、よくもこれだけ運んだものです。そのうち2万点を展示。一点3秒でも16時間半かかると聞いて気が遠くなる。とりあえず、半日見て、残りは明日とするとして出かける。
 
 風雨の中、タクシーで辿り着いた「国立故宮博物院」は青とオレンジの甍が美しい宮殿造り。わくわくする。受付で友人達と集合時間を決めて解散。
 
 私はとりあえず、目玉は抑えておこうと、カタログを片手に広い館内を疾駆する。ジャンル別、時代別になって新しくなった展示室は入り組んで暗い。作品に照明を当てて、浮き上がらせるのですが、展示の高さ、ガラス、鏡の使い方がイマイチで、人が群れると見にくい。見せ方はやはり日本の方がうまい、帰国したあとの正倉院展で身に染みました。
 
 それにしても圧倒される作品数と世界各国からの観光客の多さ。ただひとつひとつの作品は比較的小さく、細緻、巧緻の極致のような作品が多い印象です。
 
 その中で、ルーブルのモナリザやミロのビーナス(どちらもフランスの作品ではない!)に当たるようなシンボル的作品と言えば、なんと「白菜に虫」なのです。
 
 「翠玉白菜」・・・清朝のもので、18センチに9センチ。それに何十人もの見物が群がっている。翡翠の原石を溶かして、白菜の白の菜の部分と先の緑の部分。その先端に緑のキリギリスが止まっている。キリギリスには多産、子孫繁栄の意味合いがあると書いてある。確かに、きれいで、細かいが・・・これって台所の片隅の風景じゃろ?
 
 日本が中国を一時占領したとき、天皇に献上したこともあるという至宝と言われてもなあ。でも、ミュージアムショップや市内、空港の土産物店ではこれが中心、Tシャツはじめ、あらゆるグッズがありました。
 
 この話を帰国して同僚達に言うと、みんな「ウッソー!」という。丁度通りかかった校長が携帯のスクラップに提げていたので、引き留めて、これですこれです、と見せてもらう。校長もどなたかから台湾土産に貰ったらしい。それでやっと信用してもらえました。
 
 でも、今思いだしても不思議。これって民族性の違いでしょうか?

2008年3月30日
 
 ちょっと贅沢ですが、朝はイチゴを潰して、それに少し牛乳を温めたのを注いでいただきます。イチゴは「さちのか」「あまおう」・・・。「あまおう」は「かい・るい・おきい・まい」 の頭文字をとっているのだそうです。なかなか「飛鳥ルビー」は手に入りません。
 
 あべのの中華料理、「みんみん」が再開発移転の為今日閉店。路地の奥の赤い暖簾。独特の雰囲気が好きでした。29日に予約して友人達と出かける。そのような客多し。餃子、焼きそばなど、定番をいただいて名残を惜しむ。
 
 阿倍野筋の西側は、あと我々馴染みの店が孤立した形で一軒残ってしまいました。周りの店は取り壊されて空き地に。狭くて暗かった路地が妙に明るくなって風が吹き抜ける。でも、マスターはまだ意気軒昂。もちろん「みんみん」の帰りに立ち寄って盛り上がったことです。
 
 父の誕生日。夕刻電話したら、父はもう食事を終えて自分の部屋に入っていましたが、母としゃべって、途中で珍しく家にいた下の息子に代わると、その気配を感じたのか、珍しく部屋から出てきて、母と電話を代わり息子としゃべっていました。孫の祝いの言葉は格別のようで、そのあと私と話したのですが、めちゃご機嫌でした。
 
 ただ、両親は1月の米寿の祝い、3月の甥の結婚式と2度上阪しているので、もうこの春の帰省はいいかな、と思っていたのですが、今年の春は帰って来ないの?一晩でいいから帰って来て欲しい、と母が申します。気丈な母の気弱な言葉に気持ちが揺れて、4月の初めの週末、予定をいくつかキャンセルして帰省しようかと思い始めています。
 
故郷 愛媛
 
 愛南町(あいなんちょう)、外泊(そとどまり)地区。
 
 過疎が進む県の最南端で交通は不便なのに、人口が減らない地区。「石垣の里」として有名です。海から見ると城塞のように見えるらしい。
 
 それは「しまき」と呼ばれる強い季節風と潮害から家を護るためのもの。粗い組みに見える石垣は雨水を通す工夫、石作りの塀の窪み(遠見の窓)は、沖から帰ってくる漁船を見るためのもの。今も石垣の手入れが繰り返され、何百年先までも町を護ってゆこうとする人々の熱い思いがあります。
 
 故郷の県の一部なのに、行ったことがありません。いつか行きたい。

2008年3月27日
 
東京はもう満開だとか。明日からの花冷えで少し長持ちしそうとか。
でも「夜半に嵐の吹かぬものかは・・・」
 
『 さまざまの こと思い出す  桜かな 』   芭蕉
 
 9回裏に逆転さよなら負け。安房高校。世の中、人生、そんなこともあります。
 
 桑田投手、引退。あれこれマウンド外で言われました(莫大な借金はどうなったんやろ?)が、きれいなフォームで投げるいいピッチャーであったように思います。
 
 とうとう冷蔵庫の冷凍室がぬるくなって、氷も出来なくなり、診てもらうと「老衰です」の診断。結婚して2台目。13年持ちました。もう、限界ということで、あれこれ相談して、ヨドバシカメラよりちょっと高いけれど、近所の懇意にしている電気屋さんから新機種の購入を決定。途端に、冷凍庫が直ってきたのです。こういうことって、ありますねえ。
 
 嫁ハンの乗った電車が人身事故で遅れました。彼女は昨年に続いて2度目、それもいつも先頭車両に乗っている。前回は駅のホームからの飛び込み(昨日は府立高校卒業生が見知らぬ人をホームへ突き落とすというひどい事件がありました)。今回は駅間の線路に初老の男性がうずくまっていたそうです。どんな事情があったのでしょう。
 
 目撃者、証人が求められ、警笛を鳴らした回数、ブレーキの掛け具合などの調査もあったとか。
 
 こういう巡り合わせもあるのでしょうか。でも、最近電車への投身自殺が多いように感じます。
 
 指導要録がなんとか仕上がり、やっと一年間の区切りがついたと思ったら、正直なもので、即、寒気を感じて体が重い。風邪をひいたみたいです。午後、時間休を取って、帰ってひたすら眠る。
 
 昨日、多くの公立高校では、教科書販売。ある高校の友人に訊くと、「うちは新入生全員来たよ。もちろん教科書は完売」
 
 ちなみに、うちの学校では、先日の新入生テストに合わせた販売日に90人が教科書を買わずに帰りました。本代を忘れたのは数名で、あとはお金が無かったか、使い込んだか、買う気がないか、それにしても3割以上の者が教科書を持たずに新学期に臨んでくるわけです。楽しみ・・・?(苦笑)
 
台湾への旅  4
 
 台湾の人々の旅人への接し方はまた中国と微妙に違うように思いました。台湾の人の方が柔らかく、中国の人の方が、かなり強引。経済状態の違いもあるのでしょうか?
 
 いつも旅先では、真っ先にスーパーマーケットめぐりをするのですが、今回も、最初、貨幣制度に慣れなくて、レジでまごまごしてしまって、後ろに列が出来たとき、後ろに並んでいた兄ちゃんが怒るのかと思ったら、代わりに足らない小銭を出してくれて、いいですよ、と笑っている、謝謝、感激でした。
 
 中国は町中が自転車の波。台湾はバイクの波。なぜか?50ccまでのバイクは運転免許がいらないのです。道端にもずらーっと並んでいる。信号の変わり目も壮観。でも、みんなきちんとヘルメットを被っている、罰金がきついのだそうです。
 
 料理はどれも私にはおいしかった(特にショーロンポー)です。同行の友人は高齢のせいか、イマイチの評。ただ、ビールが国営の一社、数種類しかないのが残念。味のバラエティがありません。でも、中国の時とは違って路地の小さな食堂でもビールはきちんと冷えていました。


2008年3月25日
 
 『 けふまでの日 けふ捨て 初桜 』 千代女
 
 「けふ(今日)までの日は 今日捨てて 初桜」 と読むべしとは、現代の読者には酷では?助詞は省く習慣とは知ってはおるとしても・・・。
 
 でも、好きな句です。
 
 甲子園、一回戦で敗れた母校には油断があったのかも。2回戦に備えて?、応援団は相手校より少なかった?まあ、いいではありませんか?同僚の結婚(相手は母校の顧問)もあって40年ぶりに校歌、応援歌を口ずさみました。憶えているものですね。寄付はしませんでしたけれど(苦笑)。 
 
言葉が足らなかったかもしれません。
 
 行進をやるならきちんとやってほしいと書いたけれど、「一糸乱れぬ行進」など期待しておりません。行進をするならきちんと歩いてほしい。それは、いくつかチームのように、前日練習で言われて、かけ声を掛けて、腕を肩の上まで振り上げてロボットのような行進をすることではありません。
 
 前を向いて、俯かないで胸を張って歩いてほしかったのです。ナチスドイツの「美の祭典」や、どこかの国のマスゲームなどのような集団主義、様式美は期待してはおりません。念のため。
 
 今日は年に一度の職員室の大掃除、机の移動。転勤、退職される先生も一緒に埃を被って、大騒動。退職して、愛媛に帰る同僚は、午前中、一生懸命働いて、リュックを背負って、午後、新居の決まった壬生川へ帰って行きました。
 
 彼女の帰ったあと、3箱の「でこぽん」が。3年間。お世話になったお礼でしょう。おいしい。じんと来ました。
 

2008年3月24日
 
 3月8日の土曜日、合格者登校で出勤したので、今日は代休。でも、学年末のくそ忙しい時期。結局、指導要録など書類の記入や、机の整理などに出勤したら、同じ考えの同僚がいっぱい来ている。事務室、管理職も来ていて、職場はいつもの状態と変わらず。編転入の受付もやっている。これって変。文部科学省は残業手当の導入を考えているらしいが、日夜を問わない教師の仕事をだれがどう点検、確認するのだろう?
 
 でも、今日、よかったこと。喘息の発作で卒業式に出られなかったウチのグループの女子生徒が、春の訪れと共に元気になって、連絡があって登校。校長室で卒業証書を貰う。いつもは見せない笑顔で、校門を後にしてゆきました。彼女は20才。事情で家をずっと出ていたのですが、卒業を機会に家に帰り、アルバイトをしてお金を貯め、手に職をつけるため、専門学校を目指すそうです。これで、卒業年次チューター(担任)としての仕事がまたひとつ終わりました。
 
 母校は、甲子園、今日の第3試合で敗退。ま、この春のセンバツのチームはこれで終わりではありません。明日から夏を目指すのでしょう。予選までもう4ヶ月しかありません。
 
 『 折り参らせて  初桜とぞ 申しける 』   子規  明治28年
 
 「参らす」はここでは「差し上げる」という意味。相手はもちろん女性でなければなりません。
 
 西田敏行のCFに急かされて買ったグリーンズジャンボ宝くじが当たりました。
 
一万三千三百円!10枚買ったので一万三百円の儲け。これまでの投資を思うと微々たるものですが、うれしい。わーわー言っておりますと、息子が、前に酔っぱらって、三月に大きな金が入る予定があるから、なんでも買うてやると言ってので心配していたけれど、これかいな!小市民的やなあ、と呆れている。
 
 小市民で悪かったな!折角、ラッキーのお裾分けで二千五百円、やろうと思ったのに、と言うと、豹変して、お父様、どうぞくだせえましと、ゴマをすりはじめましたが、もう遅い。彼の口癖「ムリ!」と言ってやりました。
 
 結局、嫁ハンと折半しようとすると、彼女は三千円でいいという。あれこれやりとりの末、それで落ち着く。やっぱし小市民の家族です。
 
 白血病で闘病中だった本田美奈子さんと、骨折で同じ病院に入院した岩谷時子さん(89才)のボイスレターの交換。親友越路吹雪を失った岩谷時子は、ミュージカルの訳詞の仕事の中で知り合った本田美奈子と惹かれ合い、交際が深まっていたのです。愛するひとりのためにこころを込めて歌う、その訴える力の強さを感じます。歌の原点があります。(NHKで24日再放送)

2008年3月23日
 
 『 だまされて 来てまことなり  初桜 』  芭蕉
 
 昨日は旧暦、如月(2月)望月(15夜)でした。西行が
 
「 願はくば 花の下(もと)にて 春死なむ その如月の望月の頃 」
 
の歌った日でした。旧暦は年によってズレがありますが、これからいよいよ桜の時期です。
 
ところで、西行は自死であったというのが、近年の私の持論ですが、その話はまた別の機会に。
 
西行が亡くなったのは2月16日でした。
 
 彼岸が過ぎてゆきます。昨夜はずっと通っているテニススクールの25周年記念パーティ。盛会でした。幹事のひとりだったのでばたばたと動いて、2次会まで参加。異業種の人たちとわいわい盛り上がるのはいい刺激になります。帰宅は午前1時半。天心にあったはずの満月は憶えていません(苦笑)。転進
 
 朝は軽く二日酔い。昼から大阪市内にある義父の菩提寺の「施餓鬼」に義母と参加。本堂は満員ですが、参列者の平均年齢は70を超えているはず。春彼岸なので「ボタモチ」が配られるが、その対応をするお手伝いの女性達がどんくさい。お茶とセットで出して、半端に下げるので、どこまで配ったかわからなくなっている。それにぼろぼろのジーンズに帽子(本堂の中くらい脱げ。お寺側の指導も届いていない)。腹がたって、おねえちゃん、あそことこことおもち二つ!と甘味処のように注文してしまいました。
 
 前に座った老婦人の萌葱色の小紋のお召しが美しい。そばの義母に「コレナンボクライ?」と指さして小さな声で問うと、義母も気になっていたらしく「50万以上、ひょっとしたら100万・・・」。
 
 いつも楽しみにしている親戚の85才のおばあちゃんにも会えました。健在。今も息子の会社の事務員として働いてはるよし。お寺の本堂再建の為、150万円キャッシュで寄付されたそう。感服。
 
 日蓮宗の寺なのですが、違う宗派のお経を聞くのも面白い。でも、ここちよい読経のリズムと声に、いつの間にかぐっすり眠り込んでしまいました。太鼓の音で目が醒める。反省。
 
 
どうせやるなら
 
 甲子園大会やオリンピックを「スポーツを歪めるもの」と普段批判しているのに、いざ、始まったらつい見てしまうという節操のないミーハーの私の気質は変わりません。高校野球って成長期の若者がやるから、信じられないエラーやファインプレーがあるから妙にドラマチックです。確かに人を惹き付ける魅力があります。でも、高校野球を見た後にプロ野球を見ると、その体力と技術の高さに感嘆します。
 
 開会式も不要だと思うけれど、やるならさらっとやるか、それなりにショーアップもしてきちんとやるかどっちかしてほしい。行進もやらなくていいが、やるならきちんときれいに歩いてほしい。ロボットのようなぎくしゃくした動きや、だらだらした行進(特に夏の大阪大会)は見ていてげんなりします。
 
 形式に拘るつもりはありませんが、TPOも、定型も大事。学校の制服も基本的に必要ないと思いますが、制服や標準服があるなら、着るなら、きちんと着るべきと思うのです。変に改造して着るのはみっともないと思います、着ている彼らはそうは思っていないでしょうが・・・。
 
 乱調やバリエーション、アドリブの楽しみはもちろんあるのですが、それは正調があってこそと思います。

2008年3月22日

 ソメイヨシノや山桜がメインですが、もう早咲きの桜には満開のものもあります。マンション隣の市立保育園庭の桜は見事に開いています。21日は旧暦2月14日のきれいな月夜。夜桜を一足早く観賞しました。

 先日、愛媛で挙式した若い同僚の結婚祝賀パーティ大阪バージョンが祝日(20日)の夜、大阪市内で行われる。50人余の大盛会。うちの職場は団結力抜群。くだけていて、それでいて、ビデオ、踊り、歌・・・さまざまな趣向に溢れた、こころ暖まるものでした。幹事グループに感謝。

 新郎新婦と同郷なのと、新郎(教師)の現任校が私の母校というご縁もあって、司会があれこれマイクを廻してくれるのですが、私は頭も舌もうまく回らなくて反省。

 四国出身者、縁者(9人)が集まって「瀬戸の花嫁」を歌う。20代の若者はこの歌も小柳ルミ子も知らないのですが、強引に決めて、我々おじさん達がリード。いい歌なんですね、と言われる(笑)。

 それにしても感動したのは、途中で駆けつけてくれた新郎を迎えて並び立った若い二人の初々しさ、美しさ、爽やかさ・・・。明るく、能力も人間的魅力もあり、前を向いている。「今時の若いものは・・・」などという嘆きはぶっ飛んで、こういう人たちがいるのだから、明日の日本は、教育界は大丈夫だと思ってしまいました。

 実は新郎は野球部の部長でもあり、ちょうどこの春、母校を甲子園に引率してこちらに来ていたのです。

 22日、朝9時から、何十年ぶりかでその甲子園大会の開会式をテレビで見る。新しくなった球場、高校生によるアナウンスや国歌斉唱(どちらも全国から選ばれた女子生徒二人、アナウンスのひとりは車椅子、4人ともさすがに声が美しい)が新鮮。でも、選手の入場行進は相変わらず下手だなあ。最近、体育祭などでも行進などあまりしないものなあ。母校のユニフォームを懐かしく見る。そして大会歌「今ありて」で涙ぐんでしまいました。いい歌です。作曲の大阪出身の谷村さんはスタンドに、作詩の淡路出身の阿久悠さんはもういません。

 昨日の会議でいきなり府教委からのプリントが配布される。これから「障害者」という表現を「障がい者」と改めるように・・・。昨年、他府県で始まって、あれっと思っていたら、ここまで広まって来たのです。「害」という字の暗いイメージが障害者の方を傷つけるのだそうです。

 思わず、手を挙げ、立ち上がって異論を唱える。

 「暗いイメージ」というなら「障」も同じ。「障がい者」などと漢字の一部をいらうのは日本語の破壊。言葉がふさわしくないなら言葉自体を変える論議をすべきで、小手先で言葉をいじるのは、障害者差別という根本的な問題から外れている。法的な文書はそのままにするというが、この調子でいままで使われてきた言葉を勝手にいじるのは別の意味で非常に危険なことだ・・・。

 例によって、頭も舌も回らず、真意がうまく伝わったが心配ですが、あのままで見過ごせなかったのです。

 なんかいやな感じの動きです。大阪府、金がないのですから、府教委もこんなことに金をかけるのは止めなはれ!

次も友人のHPで知った気の重くなるニュース。

 反則切符1点おまけ…「温情巡査」を処分 神奈川県警

 神奈川県警は19日、実際の違反より点数の低い違反で交通反則切符を切ったとして、虚偽有印公文書作成、同行使容疑で、神奈川署地域課の男性巡査(26)を書類送検し、減給10分の1(1カ月)の懲戒処分とした。

 調べでは、巡査は昨年10月6日昼、横浜市神奈川区西大口の県道で、東京都豊島区の男性会社員(57)が左折禁止場所を左折したのを取り締まる際、「免許停止になり、会社を解雇される」と懇願され、違反点数が低い携帯電話使用禁止違反で反則切符を切った疑い。左折禁止違反は2点、携帯電話禁止違反は1点で、男性はあと2点で免停だった。

 2日後、男性が神奈川署に申し出た。男性は「温情には感謝しているが、良くないと思い直した」と話しているという。県警は11月に左折禁止違反で反則切符を切り直した。

 警察官である下の息子に見せたら、絶句していました。


2008年3月18日
 
「 三月の 甘納豆の うふふふふ 」    坪内 稔典
 
坪内さんの代表作。一度聞いたら忘れられません。
 
 のどかな天気でサイクリング通勤も好調。でも、花粉に注意してマスクは付けています。
 
 石川のたくさんの鯉も無事冬を越した模様。背鰭を見せて、泳ぎまくっています。それにしても、浅瀬ばかりの川は鯉には可哀想。ダムや護岸工事で調整されて、蛇行も出来ず、瀬も淵も少ない現代の川は生物にとって生きにくい場所なのでしょうね。
 
 朝の出勤、ジョギング、散歩の人たち、犬たちも多少のメンバー変更あり。どうも犬の方を憶えて、飼い主の顔は記憶に残りません。
 
 大和川の畔、川辺神社の参道で、夏は涼しい処、秋は日だまりを探して、雑巾のようにべちゃっと寝ていて、いつも踏みそうになった白い老犬がこの春、姿を見せません。冬を越せなかったのかな。
 
 チベットの暴動?はどうなるのだろう?報道管制がされる怖ろしさ。出国した観光客も見たことを話すなと言われているとの報道。でも、インターネットで情報がどんどん流れ込むご時世。オリンピックや万博で目先を変えても、中国の体制がいつまで持つか、先は見えません。
 
 それにしても、平和ボケの日本。日銀総裁人事でまだもたもたしている。でも、豪邸で母親に見捨てられた幼児が餓死して、同居の祖母も気付かなかったという不可解な事件も発生。平和なのに不幸な人がいっぱいいるように見える不思議。
 
 朝からずっと要録書き。夕方には目がしょぼしょぼしてきます。そろそろ老眼鏡を点検する時期かも。
 
台湾への旅 3 
 
「 九イ分(きゅうふん) 」
 
 この旅のひとつの楽しみで、私の強い要望でコースに入れてもらいました。ホウ・シャオシェン監督の名作「非情城市」の舞台である台北郊外の山の上の元炭坑の寂れた町・・・。細い入り組んだ坂道の路地、小さな赤い提灯が連なる軒、「千と千尋の神隠し」の原画のモチーフにもなったという宿。憧れの場所でした。
 
 台風の近づく雨模様の中、車を飛ばして行ってがっかり。風情のあるのは映画のロケに使われた映画館跡とその付近の坂のみ。あとはひたすら長い路地に土産物屋と食べ物屋が延々と続き、「千と千尋・・・」の音楽があちこちに流れる。そこを大型観光バスで訪れた多数の日本人などがぞろぞろ歩き回る・・・。
 
 太平洋が見える、高台の茶店も雨で閉鎖。晴れたらすばらしい景色だったでしょう。
 
 「寂れた町」を売り物に観光化して、賑やかになりすぎたという矛盾、皮肉でした。

2008年3月17日
 
 「探梅」(タンバイ)の時期は過ぎて、今は「送梅」(ソウバイ)と言うそうです。この言葉、知らなかった。今、盛んにはらはらと散って、これで桜と主役交代。この隙間に「桃の花」があるのです。故郷の家の前の畑の桃の花はもう咲いているでしょうか?
 
 慌ただしかった結婚式の疲れが残っている月曜日。昨夕、両親と一緒に愛媛に帰った弟は夜中に町内の火事で起こされ、地域消防団として出動、朝5時まで消火活動にあたって、びしょびしょで帰って来たそうです。気の毒。風邪をぶり返さなければいいけれど・・・。
 
今日は、公立高校入試2次。我が校はすでに終わっているので、合格者登校させて、学習グループ分けの為の基礎学力テスト。入試と違うので、もう緊張感も薄れたのか、金髪、ピアスはもちろん、遅刻するもの、筆記用具も持って来ない者がぼちぼち。それに驚きもしない自分がいる。即、採点しましたが、出来は、問題を少し易しくしたこともあってか、昨年よりマシだったようです。
 
 採点を終えてから、中学校へ、ヒアリングに出かける。入学生の中学時代の話を本人に了解を得て、訊きに行くのです。予想はしていたけれど、厳しい状況が多いのに愕然。とにかく家庭内暴力の被害者の多さ。自分なら壊れていただろうと思うほど。まだあの状態で留まっているだけ立派と思ってきました。
 
 なんとか一名でも多く、定着、卒業出来ればいいのですが・・・。
 
 甥の結婚式拾遺
 
 今時の披露宴は盛り上げがウマイ。みんなパフォーマンスが上手。甥の中学校からの親友はパワーポイントの映像を使って、思い出を披露するのですが、野球をやっていた甥なので、阪神の優勝シーンの選手の顔が甥だったり、色が黒いことをネタにしてリオの踊り子の顔を甥の顔にすげかえていたり、細かいところに凝って、笑いをきっちり取るのがすごい。
 
 甥の同僚の小学校教師達も流石に手慣れたもの。5人の仲間は、いきなり「ご卒業おめでとう」と外して、笑わせ、客を掴み、ピアニカなどを駆使して学芸会のノリで「君といつまでも」。卒業シーズン、そして学年末の忙しい時に、どうやって練習したのだろう。
 
  式場の若いスタッフの動きにも感心。古い木造なので段差がありますが、母の車椅子がそこにさしかかると、さっと若い男性二人が現れて手助けしてくれる。表情も和やか。マニュアルというより教育が行き届いていると感じました。
 
 仕掛けが一杯。これでもかと、ちょっとやりすぎの感もありますが。還暦を迎えた姉と花嫁とお父様の為にケーキのプレゼントのサプライズ。
 
 動転した姉が咄嗟に披露した句ー。
 
「還暦は 通過点なり 花に立つ」 
 
 締めの部分でウチの嫁ハンのミニ・コンサートも。「リラの花咲く時」と定番「愛の賛歌」。 
 
 新郎新婦の気配りがすごい。出席者全員に丁寧な手書きのメッセージがテーブル上に。さらに個人個人の写真の入ったビデオ・レターの上映。それが昼から始まった一次会。会場を市内のホテルに移して、同じ規模(80人位)の二次会。そこでもいろいろ趣向があって・・・。終わって若い仲間で呑みに行って、すべて終わって、夜中に新居に帰って、それから二人で更に近所に呑みに繰り出したらしい・・・。
 
 翌日、四国に帰る両親に挨拶に来て、昼食を伏見の「○の蔵人」で一緒する。すごい体力。もう、若い人の時代です。おっちゃんは安心して隠居の時期です。
 
 元気で、お酒も強い、我が一族にぴったしのいい嫁ハンをもらって甥の表情が輝いていました。
 
 姉一家の長い冬が終わって、春が来たなあ、としみじみ感じました。よかった、よかった。これで安心して一気に母が気抜けしなければいけれど・・・。
 
 補足1ー息子はやめてくれと言うのですが、うちの嫁候補を探して(?)披露宴会場をうろつく私。素敵な候補者3人をゲット。新婦の従姉妹(170センチを超える長身、ピンクの長振袖)、親友、新郎の大学時代の野球部のマネージャー。嫁ハンも納得の感じのいい女性達。しかし、もう一歩踏み込んで、訊いてみたら、みんな相手がいるらしい。がっくり。息子は笑っている。
 
 補足2ー泊まったホテルの冷蔵庫(ビジネスホテルなので持ち込み用に空っぽにしている)にビールを1本忘れてきてしまった。朝に飲みたい父(本当に元気です!)の為に買っておいたのに。これが痛恨。お父さんは400円のビールの為に、2000円と時間を使って、取り戻しに行こうとするタイプだねえ、と息子。その通りです。必死で我慢しました(笑)。

2008年3月16日
 
 本格的な春を迎える京から、帰って来ました。
 甥の結婚式と披露宴、一大決心で愛媛からやってきた両親(特に母)と弟夫婦を迎えて、2泊。本日午後、一行を見送りました。
 
 式場は「○ODOH」。東山、八坂の塔の隣、かつて「東の大観、西の栖鳳」と呼ばれた日本画壇の巨匠・竹内栖鳳が1929年(昭和4年)に構えた「東山艸堂」ーいずれも不勉強で知りませんでしたーの敷地と建物を利用した今、人気のスポットなのだそうです(これも知らなかった)。経営は京セラらしい。若いスタッフがいっぱいいて、いかにもきびきびと動いている。
 
 市中とは思えない広い閑静な敷地は緑に溢れ、紅梅の古木が満開の花を盛んに散らしている。意匠を凝らした木造の広い屋敷は、枠組みを活かしつつ、モダンに改造されて、いかにもオシャレ。前日の雨が上がって、だんだん空が明るくなった午前10時に開式。
 
 年のせいか、涙もろくなって・・・。
 
 バージンロ−ドを歩いてくる美しい新婦とお父さんの姿を見ただけで・・・。
 
 熱血小学校教師(ちょっと古い!でも教師の4代目です。)である甥の最初担任した生徒たち(現在16才)が、大挙してチャペル?の最後列に現れ、歓声を挙げた時・・・卒業して4年、みんな高校進学他で、京都市内に散らばっているはずなのに・・・。
 
 披露宴の最後に、新郎の父である義兄が、9年前に亡くした娘(姪)のことにはじめて触れ、新しい娘を得た気持ちで嬉しい、と述べた時・・・。
 
 大阪空港でANNAが用意してくれた車椅子に乗り換えた母が、体を捻って手を振りながら、身障者用の手荷物検査の部屋に消えた時・・・。父や弟夫婦と一緒ですから安心ですが、また会えるだろうかと思うと、一抹の不安に駆られて・・・。
 
 それまで母を乗せていた車椅子に自分が座って、送迎デッキから母達を乗せた機影を見送りました。明るい青空、暖かい空気。春です。 
 
 
台湾への旅  2
 
昨秋、週末旅行で行った台湾紀行。やっと続きを書きます。
 
「忠烈祠(ツォンレイスー)」
 
 台北市内に入る前に基隆河の北にあるにある祠に寄る。辛亥革命や抗日戦争に殉じた33万の英霊を祀っている。深い緑の森を背景に紫禁城の太和殿を模した「大殿」が映える。
 
 でも、観光客の狙いは、どこの国でもそうでしょうか、衛兵の交代式。イケメン、長身の陸海空、3軍から厳選された兵士(任期は3ヶ月くらいらしい)が、独特のポーズで歩行してくる。交代に要する時間は45分くらい。
 
 それが終わると、直立不動の衛兵の横に立って、奪い合いで記念撮影する日本、台湾の若い女性達の騒ぎ方が見苦しい。
 
 大殿の中で、脱帽を促されて、素直に従わない人々も見苦しい。それくらいは最低のマナーでしょう。
 

2008年3月13日
 
 嫁ハンが「ミモザ」の花を貰って帰ってきました。こぼれるような黄色い花が美しい。香りもいい。華やかな春の花の中で黄色の花は特に目立ちます。菜の花、レンギョウ、マンサク、ロウバイ・・・。
 
 夜の散歩で昼に見たロウバイが白く見えるのに気付きました。水銀灯の光で、黄色が消されているのです、異様な感じでした。その点、白梅は強い。闇の中でも香りで主張します。まさに「色こそ見えね 香やは隠るる」。
 
 最後のひとりの卒業式にと張り切って式服を持って行ったのに、肝腎の当該生徒は体調が悪くてドタキャン。何度もこのような風景をみてきたような気がする。校長(最近の管理職に珍しく、なかなか話せる人)も体を空けてくれていたのに・・・。
 
 「体調不良」「身体的・経済的理由」「家庭事情」・・・電話一本のそんな短い言葉がジョーカーのようにまかりとおり、それ以上突っ込めない教育界の現状です。昔はもっと教師も踏み込んで、強く迫れました。でも、今は安易に「ガンバレ」と言っただけでも問題になる・・・。
 
 家庭訪問して夜中まで話し込んだり、家に呼んだり・・・そんなことは過去の話になりつつあります。
 
 ミニ卒業式も延期?となり、朝から8時間、デスクに向かって指導要録の仕上げと、調査書をパソコンに打ち込む作業。指導要録は今は単なる(しかしもちろん最重要の)記録書類。出席、成績の数字は細心の注意で正確を期しますが、人物に対する記述は年々シンプルになってきています。
 
 情報公開の時代になって、わざわざクレームをつけられるようなリアルでシビアな記述は誰もしません。あたりさわりのない褒め言葉中心の表現の羅列、そして、「特記事項なし」が続く。これでいいのでしょうか?ちょっと抵抗していろいろ書いてみました。お叱りを受けても、もう年だから大丈夫?(苦笑)。
 
 明日が終業式。明後日が甥の結婚式。今年2度目の両親の来阪です。心配でもあります。2日間、HPのアップ、休ませていただきます。
 
伊予への旅  11 (最終回)
 
 松山での同僚の結婚式は感動的なものだったようです。よかった、よかった。結婚した同僚は大阪府を退職。愛媛の教員採用試験に合格していて、4月から愛媛で教鞭をとります。
 
 松山での式に参加した同僚が、愛媛のドライバー(特に女性)の運転はヒドイ!とこぼすことしきり。いろいろ怖い目に遭ったらしい。いわく、「一時停止を守らない」「車線変更の合図をしない」「信号が変わっても発進が遅い」・・・。なるほど、と笑って聞きつつ、あやまり、かつ弁護しながら、気付いたこと。
 
 大阪のドライバーとの決定的な違いは車の量の違い、そして生活習慣の違いです。
 
まず、車が少ないので、脇道から幹線道路に出るときも、当然、慎重さには欠けるわけです。
 
 2車線以上の道路が少ないので、そもそも車線変更などあまりしないので、ウィンカーを点けることが少ない。
 
 大阪のように急がないので、信号が青に変わっても急いで発進しない。横の信号を見てアクセルをふかしたりはしないのです。
 
 町中や高速では問題ある運転ですが、ガードレールのない山道や狭いあぜ道ではうまい運転をしてはるんですよ。
 
 マナーの悪さと片づけるのは簡単ですが、それはそれで四国の良さだとも言えると思います。そんな風に同僚達には説明しました。
 
 もちろん事故には注意しなければなりません。一番心配なのは、荒っぽい?女性ドライバー達より、急激に増えている老齢ドライバーだと思います。公共交通機関が少ない土地柄だけに、自家用車は必需品なのです
 

2008年3月12日
 
 土井さん(53才!)の乗ったエンデバーはあっという間に地球を回り、東京、大阪は飛行機で一時間の今日。でも、救急車がなかなか病院にたどり着けないのも今日。49回受け入れ拒否され、収容に4時間半かかったとか。
 
 医療側だけを責められない。慢性の医者不足、相次ぐ医療訴訟、それに伴い増える会議、一度も医者に行っていない臨月の妊産婦を急患で担ぎ込まれたら困るだろうなあというのも解る。治療を受けたら、費用を払わないで逃げ出す患者も多いらしい。
 
 新幹線の改札を強行突破するヤツが日に数百人いると聞いて驚きました。(数人ならわかる気もしましたが・・・。)特急券を買っていないのです。注意すると駅員に暴力をふるう、人数が多いので止めきれない・・・今はそんな無法がまかり通る世の中なのか!
 
 卒業式拾遺
 
 今年も式当日の朝に最後の授業料が納められて、無事、その卒業予定者は式に参加できました。
 
 式が苦手な生徒は、式当日、午後、個別に校長室で。体調不良で当日欠席の生徒は、快復したので明日、校長室で卒業証書の授与。二人とも我がグループの生徒。甘いかもしれないけれど、例年ある、連絡もなく出席しない、卒業証書も取りに来ないのよりマシかと思います。
 
 校庭に大きな落書きを遺していった子は淋しい。複雑な家庭状況とは聞きましたが・・・。
 
 うちは制服がないので様々なファションがあるのですが、今年は何故か、スーツが多かった。まだ身に付かないのはもちろんですが、若い(細身の!)スーツ姿ははやはり新鮮でかっこいい。でも、費用は?
 
 単位制の学校でクラスとしての集団組織はない(各グループは個人個人の生徒とチューターの個々の繋がり)で、教室でのお別れなどはありません。感傷もまた違ったものがありますが、私が今年度担当したグループは入学4年目の生徒達だったので、時間もかかり、いろいろあった分、思いもあり、泣いている生徒もおりました。いつもは多くない保護者の参列(懇談にもなかなか来られない)があり、式後に家族単位で記念写真に入れてもらったのも、それぞれから花をいただいたのも、初めての経験でうれしかったです。
 
 心配なのはわがグループの彼らの今後。昨年秋の卒業と合わせて18名のうち、ほとんどの生徒がフリーターで、学校斡旋の就職が1名、専門学校進学が2名です。若いときはともかく、先のことを考えて、正規社員を目指せよとは口をすっぱくして言ったのですが・・・。
 
 卒業出来なかった、今度5年目に入る生徒2名の履修登録もなんとか終えて、いよいよ年度末の整理と、新年度への準備に入ります。ばたばたしているうちに、梅の花の盛りが過ぎてゆきそうです。

2008年3月11日

「 君行かば 我とどまらば  冴返る  」  ( 子規   明治26年 )

 10日、卒業式。単位制、そして2期制で年2回の卒業式があるので、昨年3月からの一年間で3度目の卒業生を出しました。卒業年次のチューター(担任)として卒業生を呼名するのですが、なんどやっても緊張します。そして深い感慨があります。

 忙しい中、職場のメンバー40数名が集まって、慰労会。賑やかに盛り上がる。大変な教育現場だけれど、仲間がいいからがんばれます。

 11日、年末の人事異動が発表。さまざまな思いが交叉します。

 一気に春めいて来ました。来週はもう彼岸。桜の蕾が脹らんできています。

行く人
 
小野満さん (ジャス・ベーシスト 肺炎 78才)
 
 ジャスの「ビッグ4」のひとり。そしてビッグバンドの「スイング・ビーバーズ」のバンドマスター。スマートで温厚そうで、かっこいいなあ、と憧れたものでした。
 
 レナード・ローゼンマン(米作曲家、心臓発作、83才)
 
 キューブリック監督の映画「バリー・リンドン」(1975年)でアカデミー賞、音楽賞を貰いましたが、日本では何と言ってもエリア・カザン監督、ジェームス・ディーン主演の「エデンの東」(1955年)のテーマ音楽で知られました。大ヒットした美しいワルツですが、本国ではあまり知られていないそうです。「駅馬車」もそうだそうですが、日本人受けするメロディってあるのでしょうね。
 
伊予の旅 10
 
 鈍川温泉は今治市の奥座敷と言われ、市内から車で30分ほど。我が町「菊間」とは背中合わせになります。雪の残っていた峠を越えて、谷に下り、国道を少し西に上ると温泉地帯。いくつかの旅館があるのですが、われわれは入り口の「せせらぎ交流館」を選ぶ。
 
 川沿いの露天風呂もある新しい施設。泉質は肌になめらか、つるつるした感じで和歌山の「龍神温泉」の湯によく似ています。なつかしい伊予弁の人々に囲まれて1時間。湯上がりに休憩室で3人でうとうとしていたら、ケイタイに電話あり。下の息子からだ。
 
 何事かと思うと、四国ばあちゃんから忘れ物をしたと連絡があったよ。急いで電話してあげて。入浴していたのでケイタイの電源を切っていたのです。電話すると、先日、人から貰って、私にもたせてやろうと思っていた豚肉を冷蔵庫に入れたままで、渡すのを忘れていたというのです。もういいからそちらで食べて、と言って切って、車で今治市内に向かう。でも、走りながら気になって来ました。母の慌てた様子、気落ちした様子が浮かびます・・・。
 
 同行の二人にことわって、車を今治手前から引き返す。取りに帰るよと電話して、猛スピードで飛ばして家に着くと、母はまだ肉を袋に包んでいる最中でした。改めて土産を受け取って実家を出発。
 
 今治手前で北に折れて、糸山公園に向かう。ここから目の前に瀬戸内の島々、来島海峡と、それを跨ぐ来島大橋が望めるのです。夕陽の落ちた後のライトアップに浮く橋脚は迫力あり。でも、もう少し早く来れたら、夕陽が見られたのにと同行の二人に申し訳なく思い、謝る。いやいや、引き返したのは、かんさんらしいよ、と慰めてもらう。
 
 やっと今治市内に入る。伊予の旅、最後の夜。折角だからとあれこれ探し、走り回っておいしそうな「焼き鳥屋」(その1で書きましたが、今治は焼き鳥の本場です)を見つけて車を止める。わたしと「鶏弁当の友人」はしっかり呑み、結婚式の話やこの3日間の思い出話で盛り上がる。酔いが良く回る。フェリーまでの運転は酒を飲まない「ギターを抱いた友人」に頼む。
 
 フェリーの同室(大部屋)の人はきっと私の「いびき」(呑むとすごいらしい)に閉口したのではないでしょうか?夜中に起きると、隣の人はいませんでした。きっとロビーで寝はったんちゃうかな(苦笑)。お詫びする間もなく、早朝神戸着。高速を飛ばして7時に古市。「ギターを抱いた友人」と別れて、職場へ。8時到着。授業に間に合いました。土産話をいっぱいしようと思って張り切って行ったのですが、出席は15名中1名でした(苦笑)。もちろん、土産話はしました。


2008年3月9日
 
 サイクリング通勤を再開して1週間。体は慣れてきましたが、悩みはマンションの駐輪場。昨年、整理して自転車利用の住民は再登録したのですが、やはり台数が多く、今も混み合っている。帰ってきて自転車を置くのに、周りの自転車をずらしたりしなければならない。
 
 昨日、休日出勤(合格者登校、説明会)から帰宅途中、心理的、時間的余裕があったで、近所の自転車屋さんに寄る。以前住んでいた家の近くの自転車屋さんに馴染んでいたので、用があればそこまで行っていたので、初めて寄った店です。虫ゴムを換えてもらおうと思ったのですが、元気な、感じのいいおっちゃんが出てきて、さっと気安くやってくれて、しかも無料ですという。その上、ゴムを長めにしておきまししたから、今度は短く切って使ってください、という。ありがたい。これからこちらに世話になろう。
 
 気をよくして帰り着いて、この日も満車なのを見て、いつもは行っていない奥の方の第2駐輪場へ行ってみる。そこは奥まったところで、しかも2段式。人目が無く、面倒なこともあるのでしょう、上段はいっぱい空いている。初め、どうやって上の部分を降ろすのかわからなくて戸惑ったけれど、老眼鏡を掛けて、説明を読んでやってみたら案外簡単。でも、子どもや背の低い人には無理かも。早速こちらを利用することにする。引っ越して2年半。身近なこんなことも知らなかったんだ。ばたばたしないで、1分の余裕を持てば、もっと便利に生きられるんだ。
 
 伊予の旅 9
 
 2月11日(月)もいい天気。朝から裏庭のレモンを脚立を立てて収穫。年末にもぎ損ねていたのがすっかり黄色く色付いている。高い枝先のものは父母には届かないのです。母が傍で,あちこち掃除をしつつ、いろいろ話をする。小枝にある尖った棘であちこち手を傷つける。「ギターを抱えた書家の友人」は二階の私の部屋でギターを弾いていて、時々窓から手を振っている。
 
一段落して、友人を村はずれの「霧合(むごう)の瀧」へ案内。誰もいない深い山間の瀧。一旦帰って荷造りして、両親、義妹に見送られて、北条へ向かう。
 
 「花遍路」の舞台、原作者、早坂暁さんのご実家「勧商場」(かんしょうば)近く。老舗「○田屋」はここの名物、「鯛メシ」の本場。これを食べて貰いたくて、大阪で確認し、昨日10日にここへ立ち寄って予約しておいたのです。
 
 本当は、この店の支店が北条の沖に浮かぶ「鹿島」にあり、そこの海の上に浮かぶ部屋でいただくつもりだったのに、客の減少もあって冬の間閉鎖していると聞いて、本店にしたのです。
 
 でも、約束した12時半になっても、「鶏弁当の友人」が現れない。彼は昨日の結婚式の後、出席したメンバーと道後に一泊、今朝はひとりで念願の「高縄山」に登っているはず。山登りのベテランですが、昨日の酒が残っているのか、店から見える高縄山は雪を抱いているから上で事故にあったのか、ケイタイは持たない人間だし・・・と気を揉んでいるとやっと登場。随分急いだらしく汗をかいている。山上はやはり雪道で大変だったらしい。彼のサイクリングは今回はこれでおしまい。
 
 まあ、ごくろうさん、無事でよかったと、彼はビール、私はノンアルコールビール、ギターを抱いた友人はお茶で乾杯して「鯛メシ」にありつく。潮味が効いておいしい。今度は鹿島で食べようねと約束。
 
 再び車で菊間へ。「鶏弁当の友人」は数年前にも来ているので、その時登った思い出の「瓦館」のある駅そばの丘に登る。梅が咲いている。「菅船長」の銅像を見て、実家をかすめて、九十九折りの山道を一気に上って今治の奥、鈍川(にぶかわ)温泉に向かいます。
 
 

2008年3月8日
 
 「 笹舟や 菫の岸に 流れ着く 」  (子規 明治30年)
 
 ありきたりの句のようですが、臨終近いと思えば、別の読み方も出来るように思います。「菫の岸」は彼岸、笹舟は作者自身なのかも知れません。
 
 靴下で失敗してから、嫁ハンの身辺チェックが続く。
 
あなた!歯ブラシ、ここんとこ、ずっと同じ物使ってない?
 
そういえば、この3ヶ月くらい換えてないなあ。
 
キャァー、もう、3週間で換えるのが常識なのよ!
 
そんなの知るかい!学生時代は1年くらい同じ物使うておったわい!
 
ギャァー、もう、早よ、これ使って!
 
 投げられたのは、ブラシも柄も真っ黒な歯ブラシ。最近こんな色のグッズが流行っているのですね。ブラッシングには熱心なのに、ブラシ選びや交換には無頓着だったので、ちょっと反省。ちなみに、歯間ブラシはすぐ折れるので、しょっちゅう換えてはいます。
 
 市立美術館の悪口を書き忘れていました。
 
 閉館間際に入って、走って見たけれど、しょっちゅう放送が入って、5時閉館を告げ、退出を促すのにまず腹が立つ。うるさい、わかっとんじゃ!
 
 しかも、記念品売り場(今回出品作品の絵はがきなど売っている、これが楽しみ)、買い物客がまだ選んでいるのにもう閉めますからと、シートを掛け始める。この時点でまだ4時50分。自分たちが定刻に帰りたい一心なんですね。売り上げや客の希望はどうでもいいんだ。平松新知事さん、この現実をご覧あれ。
 
 頭にきたから、もういちどシートを捲って、選んでやった。それでも気の小さい私は急いだので、欲しいのを買い切れなかった。悔しい。
 
 ローマ人の物語 13巻〜14巻
 
 思えばカエサルはいつも若手を登用してきたようです。それが永年の難敵に最終的にうち勝てたひとつの原因だろうと思います。人気と人徳のある彼は敵の息子達を巧妙に取り込んでいったのです。それにしても、55才、暗殺される半年前に書いた遺言状で後継者に指名したのは、38才のアントニウスを飛び越して、まだ18才のオクダヴィアヌス。カエサルの妹の孫ではありましたが、全く無名の新人。
 
 当時のローマでは30才が政治家としてデビューの年。それなのに、すべて未知数の体も弱い若者を養子にした大胆さ。それに応えた若者もすごいけれど・・・。
 
 それにしても、クレオパトラにいいようにあしらわれ、翻弄され、カエサルの後継者争いにおいて、ことごとくアホな手を打って、自滅していったアントニウスって不思議な男です。客観性というものを全く持ち合わせていない。でも、愛するクレオパトラの腕の中で死んだのだから本望とすべしか。
 
 カエサルはクレオパトラも彼女との実子も遺言で無視したわけで、それでクレオパトラも頭に来たのでしょう。塩野さんはカエサル贔屓で、遺言での無視はカエサルのクレオパトラへの愛と深遠な計算による行為としますが、裏切られたと思い込んだクレオパトラにとっては、自分を軽んじたローマへの復讐とエジプト女王としてのプライドが、牛耳りやすい男アントニウスへの傾倒に繋がったのでしょう。
 
 そのあたりの情勢を若いオクタヴィアヌスはうまく利用して、年上のライバルで、カエサルの腹心だったアントニウスを倒すのを、反ローマの旗を挙げたエジプト(クレオパトラ)を倒すことにすり替えて人心を掴んでゆく。
 
 カエサルがアントニウスを後継者に指名しなかったのも、そのあたりの「人物」を見切っていたからかもしれませんね。
 
 オクタヴィアヌスは後の初代皇帝アウグストゥスとなる。虚弱(美少年ではあったらしい)で、戦争も下手な若者はその代わり「慎重さ」と「クールさ」、「カエサルと比較しつつ自分の力を客観的に自覚して活かしてゆく力」を持ち、そしてアグリッパを始め、スタッフに恵まれていたのです。
 

2008年3月7日

「 なにを求める 風の中行く 」  山頭火

昨夜通夜に出かけた大阪市内の斎場は、胡蝶蘭、百合、菊・・・と白一色の美しい祭壇。会館は暖房も風呂も飲食設備も完備。故人は長年入院中、享年98才、まあ、天寿をまっとうされたということで、看病ごくろうさまと本人を労う意味で?読経の後、控え室で20年来の仲間6人で11時過ぎまで飲みまくってしまいました。

それにしても友人(独身)は、この10年余で父、姉、母と亡くして、ひとりになってしまいました。家族縁が薄いのだろうか。しがらみがいっぱいあるのも大変だけれど、「ひとり」も淋しいだろうなあ。まあ、我々のような飲み仲間が控えているから大丈夫でしょうが・・・。

第39回日展

時間がなかったので、閉館間際に走りこんで、駆け足で見る、そのせいか今年はすごく充実した感じでした。いつものように彫刻から。のびやかな作品が並ぶ中で、いつも女性像が目立っているのに、今年は珍しく男性像が迫力ありました、

楽しみの日本画は、これもいつもの独特の青の作家、赤の作家(名前は憶えられない)の力作が並ぶ中で、近年楽しみにしている大阪の画家、国分さん(女性)の絵が見られない。どうしてはるんだろう?入選しなかったのかなあ?

黒いリボンがついた作品もいくつか。最期まで創作活動を続けはったんですね。

3月23日まで 市立美術館で。退職したらやはり11月の上野の美術館へ行きたい。作品数が違います(大阪は関西の入選作中心)。あ、昨年から六本木に新しい国立美術館が出来たのでしたっけ。

最近見つけた、アベノの、これまた路地裏の飲み屋。前から気になっていたけれど、ちょっと敷居が高かったのです。暗くて、常連ばかりみたいな雰囲気。

 入ってみて安心。気のいい60代?のマスターがひとりで気楽にやってはる。暗いのは20年前までジャズ喫茶で、黒塗りの内装だったから。かつては「憂○団」も出演していたというから一流の店だったんだ。でも10坪ほどで小さい。今は古びて床もキーキー鳴る。最初の時はグループ客があったけれど、2度目以降は一人も客に会わない。壁に並んだ銘酒を見て期待しましたが、実は酒はビールを置いてあるのみ。あとは持ち込み自由なのです。持ち込み料は、量にかかわらず1本千円。これはいい。早速、近鉄百貨店地下一階の酒売り場で好きな酒を買ってきてキープ。お陰で毎回2千円以下の支払いで済んでいます。

メニューもなし。マスターが誂えてくれているものをいただく。先週は若牛蒡の葉を刻んで和えたもの。日本酒に合う。味付けがいい。訊いてみると、マスターは北浜で板前をしていたらしい。納得。

アベノ近辺の店舗営業状況は、百貨店に向かう南北の筋は、人通りも多いので賃貸料が高く、横の狭い通りが安いと知る。なるほど。この店も月10万位。(電気代などは別)

 将来のバー開店に向けて?マスターからいろいろ教わっています。乞うご期待?

2008年3月6

 この春(来週)卒業できない生徒に、今日から来年度の履修指導。単位制なので各自、自分の時間割を組むのです。個別指導になるので、時間を切って対応します。

ところが時間を割り当てて、連絡しておいた該当生徒が来ない。予想されたことなので、教室から携帯で電話。母親が出る。

これこれで、○○クン、まだ来られておりませんが・・

すみません、○○はまだ寝てます。

代わって下さい。

はい、○○、電話よー(それだけかい!?)

(眠そうな声で出てきて)すみません、寝坊しました。

今から来れるか?

実は、11時からバイトで・・・

何ぬかす!学校より卒業より、バイトが大事なんか!と怒鳴って、電話を叩き切りたいところですが、そうすると問題になる。ぐっと我慢して、お説教して、次回の個別指導の日程を決める。指導に入る前から疲れました(苦笑)。

三寒四温、少しずつ春が近づいているのを感じます。でも、ここにいたって、3件訃報が続く。先週と昨日は親戚、今日は友人の母上が亡くなったというので通夜に。寒さがこたえたのでしょうか。四国の高齢の両親も心配です。

伊予の旅 8

忘れていました。加茂神社、実家の前に、菊間町内にある40年来の友人の家に立ち寄ったのです。前にこの欄で触れましたが、長年病気療養中の、中学以来の友です。

いつものごとく、づかづか台所に上がりこんで、30分あまり談笑。「ギターを抱いた書家の友」の来訪も喜んで、篆刻についてあれこれ質問などしている。書家の友人も持ち合わせの印を押してやったりして和やかなムード。でも、長くいると彼が疲れるので、ケーキをいただき、紅茶を飲んで退散。

後日、大阪へ彼から葉書が届きました。そこに下の句

「 印刻む 友もありけり 冬の月 」


2008年3月5日
 
「永年の 仕事を辞める 三月の 花は蕾の 八十を潮に」
 
「これからは どうして生きると 妻が訊く どうして食べると 昔は言ったが」
 
笠間 章 さん 
 
元気やなあ。80才までお仕事をして、まだ自分は「蕾」と思ってはる。飽食の時代に生きて、それに流されていない強い生き方が伺われます。私?私はすでに50代で隠居志望です。
 
 
二宮金次郎は泥棒だった?
 
今朝のラジオで聴いた話。「家が貧乏だ」「山から薪を背負って下りてきた」これで泥棒容疑。
 
これに「山は共有林だった」という言葉が入れば、容疑は一瞬に消える。
 
3つ目の情報の大事さ。少ない情報で早合点してはいけない。でも、それが多い。
 
 
 「言いたいことがあったら面と向かってメールしなさいよ!」
 
新聞の投稿から。最近の小学生の言葉だとか。笑う気にもなれません。
 
 
 卒業判定会議がありました。
 
 無事、多数の卒業が決まったのはうれしいけれど・・・卒業予定者でまだ授業料が納まっていない生徒が今年もあり。今夜もチューター(担任)とリーダー(学年主任)が家庭訪問しています。
 
 来年度の行事予定検討中。遠足を5月に実施したいけれど、その時点では諸費がほとんど納められないので、予算がなく実施できない。それで、秋に遠足を持ってゆくとすると、行事があれこれぶつかって、ややこしい。
 
 誤解と非難を恐れずに言うと、給食費を払えないなら、食べない、給食は出さないのが当たり前と思うのです。昔から弁当を持ってこれない生徒が昼休み、校庭や、廊下にいたものです。そっとパンを分けたり、いまより、周囲もさりげなく気を遣っていたように思います。みんなと一緒に並んで、払っていない給食を食べることが平等ではない。
 
 諸費が集まらなければ遠足は止めればいい。冷暖房費が集まらなければ、冷暖房を止めればいい。払った家には返金すればいい。義務を果たさないで、権利だけ享受しようというのは甘えであり、民主主義ではありません。
 
 「薄墨で 書いた様」なり 春の月 」  (子規 明治23年)

2008年3月4日

 今年の冬は寒かった、と思っていたら、気象情報で、12月まで異常に暖かく、1月から気温が下がったので、平均すると今年の冬も「暖冬」と位置づけられるのだそうです。

「寒かった」という印象だけでいいとも思うけれど、やはりきちんと平均気温を算出して、「地球温暖化」を認識すべきなのでしょうね。 

 気温も上がってきて、自転車通勤を再開しようと、3日、雨上がりの夕刻、職場を飛び出す。東の空は明るい大和川の堤で振り返ると、大阪市内は低く黒い雲の下。これはヤバイ、雨が追いかけてくる。必死でペダルを漕いだけれど、柏原の大和川と石川の合流地点あたりで追いつかれる。石川のサイクリングロードを高校生と競争して走って古市にたどり着いたらもう帽子もコートもズボンもびしょびしょ。汗もびっしょり。寒気がして、思わず節酒を忘れ、焼酎のお湯割り3杯を飲んでしまいました。

それでもめげす、4日の朝も自転車で出かける。帽子、耳あて、マスク、マフラーの完全装備。4ヶ月ぶりの朝のサイクリングは新鮮でした。ゆっくり走る。大和川の流れに遊ぶ鴨たち渡り鳥ももうすぐ北へ帰って行くのでしょう。一方、南の島ではツバメがそろそろ日本方面への旅支度をしているのでしょうか。彼岸まであと2週間あまりです。

伊予の旅 7

「ギターを抱いた書家の友人」は夕食後、今度は母と話してくれている。母も昔話などあれこれしている。その間に私は夕食の後片付けをする。

前日からの課題は、3月の京都で行われる甥の結婚式に母が参列するかどうか。体調と足に自信がない母は一旦出席を諦めていたのだけれど、甥からの電話もあって気持ちが揺れていたのです。私も甥から援護射撃を頼まれていて、母への説得と、京都行きの条件整備(弟夫婦と相談など)も今回の帰省のポイントのひとつでした。

洗い物をしながら背中で二人の話を聞いていると、その話題が出て、友人も、せっかくやから出はったらどうですか、と勧めてくれている。母の気持ちが出席に傾きかけている。

松山の結婚式参加グループからメール。「鶏弁当の友人」は主賓として見事なスピーチをして、そのあとも場を盛り上げ(エンタティナーなのです)、しっかり飲んで轟沈。みんなで担いで宿舎へ運び込んだところですとのこと。大阪、フェリー、前日のホテルとずっと折をみては練習していたものな。よかった、よかった。


2008年3月3日

 嫁ハンが、あなた、最近、靴下の洗濯物が少ないと思うのだけれど・・・、ご明察、実は、黄砂も来るし、冬で乾きも悪いと思って、靴下は2日履いているんだ、と答えると、キャー!やめて、不潔、きちんと出してチョーダイ!と叱られてしまいました(苦笑)。

 先日述べた健康法の誤りが早速発覚。一生懸命やっていた歯磨きは、力の入れすぎと注意される。歯茎は手や顔の皮膚よりも弱くて、デリケートなのです、やさしく擦ってください。納得。

 歯間ブラシはつい根元まで通して、ゴシゴシ前後させるが、根元までやっちゃだめ、歯茎を傷めています・・・。

 今まで何をやっていたのでしょう?でも、根元にあるカスを取りたいもんな。

入試の合格発表。今年は志願者が多くなって、40人以上が落ちました。それにしても、タバコを吸いながら発表を見に来るバカ者が何人もいます。注意しますが、まだ高校の管理下にはないので、きつい指導や処分ができないとわかっているらしく?横柄な態度で無視する。こういう中学生のうち、何人かは落ちましたが、合格した者も多い。こんなの相手にまた一年、空しく石を積むと思うと、気が重くなります。3時間校門に立って、傍若無人に振舞う受験生たちを捌きながら、心も冷えました。もちろん、まともな生徒もいるのですが、彼らが掻き回され、引きずられてゆかないか心配です。こちらも心しなければ。

ローマ人の物語 

 カエサル(シーザー)は政治家、戦略家、としてだけでなく、文筆家としてあの時代最高の知性だったのだと知りました。当時、彼と並ぶのはキケロくらい。この二人は友人であり、認め合っていたのに、政治的立場、思想は異なり、結局、キケロはカエサル暗殺の黒幕となってしまい、暗殺成功後の思惑は外れ、粛清されるに至ります。二人の知識人に違いは、先見性の有無だった、との塩野さんの分析。

 それにしても、カエサルの表現の巧みさ。「人は自分が見たいと思う事実しか見ない」「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」「アレキサンドリアでポンペイウスの死を知った」2千年以上も前に、情報公開の大切さ、情報操作とその効果、人心掌握術をきっちり弁えていたことをすごいと思います。

 それにしても、最期の「ブルータス、お前もか!」のブルータスは普通、首謀者マルクス・ブルータスと思われていますが、実はマルクスの従兄弟、デキムス・ブルータスではなかったか?という説があることを初めて知りました。

 デキムスは長らくカエサルの腹心の部下であり、暗殺後カエサルの遺言状が公開されたとき、自分が第2の遺産相続人に指名されていたことを初めて知って顔色を変えたという。当然、それほどの信頼をデキムスに置いていて裏切られたカエサルの驚きは大きかったであろうし、あの言葉も納得できますが、暗殺後の民衆の怒りも大きかったのでしょう。デキムスも悲惨な死を遂げます。


2008年3月2日
 
 「 鶯や  朝寝を起こす 人もなし 」  (子規  明治26年)
 
 NHKラジオの夕方の番組で、では懐かしいニッポンの歌を、と紹介されて流れてきたのが「春一番」でした。もう、懐かしい歌となったのですね。
 
 土曜のテニス。風が止むと日射しは暖かい。見上げる空に初雲雀が。
 
 日曜朝の座禅は出かけたのですが、ご住職の都合で中止に。寺の庭の梅や水仙が盛りでした。
 
 「 水仙の  花を見ている  別れかな 」
 
 と口ずさむと、同行の友人が、男と女の別れですね、と言う。
 
 なにげなく憶えていて、この句に卒業などのイメージを持っていたのですが、改めて思えば、なるほど、梅見でも花見でもなく、寒空の下、水仙を見に行くのは、恋に疲れた中年のカップルのように思います。不倫かな、最後の旅、言葉もなく顔を見交わすでもなく、じっと水仙を見つめています。
 
 明日の夜明け前に黄砂が日本到着の予報。春は着実に近づいています。
 
 タカラヅカ音楽学校でも卒業式。94期生45名。首席(タカラヅカには厳しい期別の序列がありますが、同期内はすべて成績順だそうです)の小林由季さん(芸名、仙名彩世さん)はスターになれるかな?初舞台は21日からの期待のミュージカル「ミー&マイガール」です。ラインダンスを見に行きたい。
 
 最近知った言葉
 
「浦じまい」
 
 海難事故で行方の知れぬ家族や漁師仲間の捜索に区切りをつけて海の安全を祈る行事。切ないその行事が行われ、漁が再会された直後に下のニュースが入ってきました。操舵室も深い海の底にあるのでしょうか。
 
 イージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故で、海洋研究開発機構は2日、調査船「なつしま」の無人探査機「ハイパードルフィン」が、房総半島・野島崎沖約40キロの事故現場付近の海底(深さ約1840メートル)で、「清徳丸」と書かれた赤い旗や白い長靴などを発見したと発表した。(時事通信)
 
 伊予の旅 6
 
 「ギターを抱いた友人」を故郷の町へ案内。前から興味を持ってくれていた加茂神社へ。なんどもテレビで放映された無形文化財「お供馬」の現場。馬場を車で走って坂の上から本殿に入る。長年見慣れているので感じなかったけれど、友人から指摘されて改めて鬼瓦の見事さに気付く。菊間は戦国時代から瓦の産地なのです。
 
 伊予の菊間は 煙の都 焼いて積み出す 瓦船  (「菊間音頭」)
 
 加茂神社から車で5分、やっと我が家に。玄関の間に書家でもある友人の篆刻が掛けてある。父の仕業です。正月の米寿の祝いの看板も友人が書いてくれたのです。
 
 初対面だけれど、意気投合して父と話し込んでくれているので、私は母と夕食の鍋の支度。鶏肉と自宅で採れた野菜をたっぷり。無口な父がご機嫌でよくしゃべって、賑やかな食事になりました。友人は呑まないのでその分、私がしっかり父と付き合うことになる。前日昼にちょっと帰って、すぐ松山に引き返して、酒を付き合わなかったので、父は欲求不満だったみたいです。酒は梅錦。
 
 夜中までわいわい言っていたかと思ったらまだ9時。これが田舎の感覚です。外はしっかり冷え込んで、静寂の闇。2月10日の夜でした。
 

2008年3月1日
 
 中高の運動部に所属して汗を流していた頃、「水は飲むな」と言われ、足腰を鍛えるためにしょっちゅう「兎跳び」をやらされた・・・これらが理にかなっていないと、改められてエーッと思ったのはいつ頃でしょう。
 
 今日のニュースで、「水泳後に目を洗ってはいけない」という学会の報告を見ました。水道水に含まれる塩素で却って目を痛めるのだそうです。
 
 なんや、それっていう感じ。
 
 われわれも違った健康法や、鍛え方をあちこちでしているのでしょうか?
 
 今、老後に備えて一生懸命歯を磨いていますが、磨き方もどんどん変わってきました。今は、歯茎と歯を半々に、あと毛先の尖った歯ブラシで磨くのと、歯間ブラシを使っていますが、正しいのかなあ。
 
 風呂上がりに冷たい水を被る健康法というのもありました。昔はずっとやっていましたが、風呂上がりのビールの味がイマイチになるのと、心臓に悪そうなので止めています。
 
 寝る前に目を休ませ、遠くを見るといいと言われ、長年やっていたけれど、お陰で?近眼にはならず39才で老眼になってしまった・・・。
 
 運動のしすぎも注意しなければいけません、げに、健康管理はむつかしい。ダイエットもなかなかです。
 
 

四国への旅 5


松山市街を抜けると、海が近くなる。北条で「ギターを抱いた友人」と夕食の買い物をして、町内の料理屋で明日の昼食「鯛飯」を予約。結婚式に出席して松山にもう一泊する「鶏弁当の友人」と明日、この町で落ち合う予定です。町外れの鹿島が望める海岸のレストランで昼食。船で3分の鹿島も周りの島々ものどかな日和だったので、砂浜には散歩している家族連れが結構いました。このあたりは最近整備されて、道の駅も出来、夏は海水浴客で賑わうところ。


そこからリアス式の海岸線をひたすら走って15分、わが町菊間にたどり着きます。



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