Kan-Kan の雑記帳



2008年8月31日
 
 「 夏の闇 後期高齢証 ひらり 」  新聞俳壇 投稿句から  埼玉 かくた さん
 
 かくたさんは84歳とか。夜風が吹いて、机上の紙片が飛んだのでしょうか?拾うのも大儀です。高齢者軽視?社会への皮肉がちらり。
 
 朝、嫁ハンを積んで、モーニングを兼ねて富田林にあるレストラン・カフェ「サントロ・ドゥ・ヴィラージュ」へディナーライブの打ち合わせに行く。今年は11月の末の土曜に実施予定(一昨年は9月末でした)。
 
 客席が少し減ったこと、すでに申し込みをかなりいただいていることを考え、店の提案で2夜連続の公演にすることに決定。メニューや料金も確認。また、改めてご案内します。日は11月28日(金)と29日(土)です。今回はクリスマスバージョン。お楽しみに。Zさん、またよろしくね。今回は、ン百万のダイヤ付けてきたらあかんよ。はらはらするから。あ、また、マネージャーでもないのに、客引きのようなことをしている。いかん、いかん。
 
 午後、書家である友人に誘われて和歌山、橋本市、学文路(かむろ)にあるギャラリーへ、友人のお師匠さん、眞鍋氏の個展を拝見に行く。夏の名残の強い日射しに緑の山が輝いて美しい。峠を越えて和歌山に入ると余計に緑が濃く感じる。紀ノ川の大きさも気持ちいい。
 
 高野街道からちょっと山側に入ったところにあるギャラリーはおしゃれな造り。展示も、立派な篆刻、書がバランスよく配置されて、素人目にも美しくまとまった会場でした。来客も次々と訪れ、ギャラリーオーナーが企画展で築いてきた自信と信頼と落ち着いたムードが作家や人々との間に漂っています。
 
 でも、これって、あまり知らないけれど、銀座の画廊の軽井沢支店の雰囲気?私はもうちいと、作家の熱いパワーが迫ってくるような、荒削りの展示の方が好みかなあ。しかし、ギャラリーという非日常の空間は本当に魅力的です。
 
 高卒検定結果が出ました。うちのグループは約5割の合格率でした。来週は第2回(11月実施)の申し込み準備です。書類を揃えるのがなかなか大変。橋下さんがなんと言おうと、小学校からあまり学校へ行っていない、授業に出ていない、漢字が、書類が、説明文が、設問が読めない、アルファベットが書けない高校生がいっぱいいるのが現実です。
 
 どうにかせい、すぐに学力をつけよ、といわれても、一から統計的に教え直すことは物理的にムリ。目の前の生徒に、少しずつ必要なことを、ひとつずつ教えてゆくしかないのです。そして、本人に勉強の必要性、自覚を促すしかないのです。
 
 テニスの全米オープン。錦織クン。見事ベスト16へ。すばらしい動きとショット。若く、英語も堪能。すばらしい!
 
 でも、タオルを首にかけたままで、水を飲みながら、インタビューに答えない方がいいよ。これはマナーにうるさい、日本のおっちゃんのおせっかいな感想でした。
 
 最近読んだ本
 
「 もう一度の青い空 」  黒崎 良乃
 
 第20回堺自由都市文学賞受賞作。昨日まで読売夕刊に短期連載。
 
 傍目にも幸せな結婚、一生懸命主婦、育児をし、舅、姑を見送ったら、ふたりの息子が自立、ついでに夫も愛人を作って出ていってしまった。4LDKのマンションにひとり取り残された主人公は、出没するゴキブリと闘いつつ、自分の人生を振り返り、怒り、失望し、夫の帰りを待ちつつ再生の路を探る。
 
 重いテーマだけれど、ユーモアを散りばめて、胃にもたれない作品に仕上がっています。主人公はまだまだ時間はかかるけれど、いい友人、息子に恵まれてもいます。ヘルパーの仕事に生き甲斐を見いだして生きてゆくのだろう。事件もなく、平凡な話だけれど、その「平凡さの中の大変さ」をきちんと描くのも文学です。


2008年8月30日
 
 「 お遍路が 一列に行く 虹の中 」 風天
 
 伊藤さんの死が確認される。足にも頭にも銃弾が打ち込まれていた。逃亡の足手まといになって殺されたのだろうというが・・・。痛ましい。伊藤さんのお父さんは、私のふたつ年上、お母さんはうちの嫁はんと年齢も名前も一緒。。「無事解放」のニュースに「まぐろの刺身を用意してやる」と言ってはったのに・・・二転三転する情報は不安定な政情そのまま。お気持ちを思うとたまらない。
 
 落ち込んでいるこちらに対して、下の息子はクールです。
 
「覚悟して行かはったんちゃうかな?」と言い放って、出勤して行こうとする。
玄関まで追いかけて(いつも出勤は見送るようにしています)
「お前は大丈夫なんか?」
「アフガニスタンよりは安全だと思うよ」
振り向きもせず、風のようにエレベーターホールへ向かっている。
 
今日も、厚い、暑い防刃チョッキを来て、アスファルトの上を歩いているのでしょうか?
 
上の息子は午後9時過ぎに帰宅、入浴、食事をして11時過ぎに出勤。明日は早番なので
始発では間に合わず、終電で行って、職場で仮眠を取るという。
家の滞在時間、2時間余。
 
玄関で、
「大丈夫か?過労死したらあかんで!」
「うん、大丈夫」元気のない、愛想もない返事。
 
親の覚悟も必要です。
 
29日に発表(郵送)があった、今年度の第1回高校卒業程度検定試験の結果がそろそろ各自の家に届く頃。電話連絡第1号はー
「3科目受かってた!」(彼女は6科目受検、あとの3科目はあかんかったんだ)
「よっしゃ。よかった!来週、第2回の申し込みをしような。」
 
彼女は卒業(74単位)まで、あと50単位です。ふーっ。
 
最近読んだ本
 
「人生の旅をゆく」 吉本 ばなな
 
 結婚して子どもが出来て、俄然旅をはじめたばななさん。当然子どもも連れてゆく。
「日本では、子どもが泣けば、おもちゃやちょっとしたお菓子が出てくるし、子どもの大きさに関係なく幼児椅子がでてくる。でも、そこには形しかない、そういう印象がある。車椅子の人のための道が形だけあるが、Uターンする空間がなかったりすることさえある。いつのまにか日本は丁寧で気配りがあるというのと、形だけが整っているといのを、混同してしまったみたいだ。ヨーロッパはアバウトに出来ているので、あらゆる意味での創意工夫は必要だが、人間のすることはみんなそのまま許されている、そういう感じがする」
 
 なるほど。わかるように思います。我々は、形を整え、大事な心を失ってきているんだ。
 
「コキュ伯爵夫人の艶事(つやごと)」 藤本 ひとみ
 
 女性作家で色っぽいもの書かせたらこの人。でも、題名や刺激的な表装に期待して読むと、見事にはぐらかされます。連作「令嬢アイセの秘事」「ダンフェル夫人の断頭台」「農夫ジャックの幸福」はリンクしながら、次第にフランス革命に翻弄される貴族、庶民の哀感をきっちり描き出してゆきます。


2008年8月29日
 
  「秋の野 犬 ぽつんと 日暮れて」  風天(渥美清さん)
 
 松葉杖を20日間使って思ったこと・・・。ドアを開けてくれたり、道を空けてくれるのは有り難い。エレベータ―の出入りなどでも助かるが、狭い通路でお先にどうぞと言われると困る。後ろから遠慮がちについてこられると、急がなければと思って、焦って杖が滑ったりします。先に行ってもらった方が気が楽です。体験してこそわかることも、たくさんありました。
 
 その松葉杖も添え木も、27日の検査で不要ということになり、晴れて二本足歩行に移行。30日から40日と言われていたので、3週間は早い!若い!と医者に言われて有頂天。
 
 で、右足で踏み込もうとして、つい、腰が引けていることを発見。思い切って足の裏を地につけられないのです。知らないうちに庇ってしまう、そして、左足の付け根が痛む。
 
 もう、お酒も飲んでいいですよ!と言われ、え、あかんかったんですか?とは今更言えず、あの、普段からあまり呑まないので・・・とか、しどろもどろ・・・後で息子に、「うそつき親父」と言われる(苦笑)。
 
 でも、やはり嬉しい。行動半径が一気に回復。へやの掃除や、溜まっていたあれこれを一気に片づける。考査前、最後の授業も元気に終えることが出来ました。半期完結の科目もあるので、これで縁が切れる生徒、9月卒業予定の生徒あり。楽しかった、お世話になりました、と言ってくれる生徒もいて、ちょっぴり寂しい。
 
 アベノのあの店は、もう半分壊されたらいい。見に行った友人が写メールを送ってくれました。思い出がいっぱいある暗いカウンターが、小座敷が白日も下で別物のように放置されています。赤字確実の再開発で、たくさんの貴重なものが失われてゆきます。これってたしか「コンコルドの誤り」というのでしたね。
 
 今止めると、これまでの投資が、犠牲が無駄になるという論理で、無茶な作戦、計画を更に進めてゆく。イギリス、フランス両大国のメンツを賭けた巨大プロジェクトも、パリでの事故があって、やっと中止になる・・・。こういう愚行は人間だけに見られる特徴なのだそうですが・・・。もちろん、それを超えて学習する国も、人間もいるが、大阪市はどうでしょう?
 
 最近印象に残った言葉
 
太田和彦(アートディレくクター)
 
 よい居酒屋の条件は「いい酒、いい人、いい肴」・・・「いい人」とは主人や客の人柄など店の雰囲気をいい、酒肴よりもしばしば優先するのが居酒屋たる由縁だ。「ミシュラン」は「最高の料理とサービス」を評価するようだが、まったく隙のない完璧な料理と、すみずみまで気配りのきいた慇懃なサービスが居心地が良いかと言われると。はたしてどうか。
 
 ・・・レストランは食べ終わると店を出るが、居酒屋は気が済むまで、ちんたら飲み続ける。レストランは胃袋を満たすところ、居酒屋は精神を満たすところだ。
 
諸手、諸足を挙げて賛成です。そんな店がひとつ消えました。


2008年8月27日
 
「 チョーク箱の中に チョークの数本が かろらかに鳴り 秋が始まる 」  大辻 隆弘 
 
 先日述べた、モンスターペアレント(性格には離婚して親権を失っているから保護者ではない)が電話でねばっていたのは、子どもの在学照明を手に入れて、それで教育ローンで金を借りようという算段らしい。経済的に困っているのでしょう。もちろん学校は発行を拒否。それで怒っていたのです。まったく、めちゃくちゃというか、自分勝手というか、親の風上に置けない(風下にも)というか・・・子どもが可哀想です。
 
 旅行でなく、きちんと目的をもって、ボランティア活動(農業普及、それまでは麻薬の材料、罌粟の栽培地だった)をしていた青年が誘拐被害に遭うなんて・・・。死体発見の報道が、誤報であることを祈るばかりです。昨日、無事解放の報道があったのに・・・。日本の両親(我々と同じ世代)のお気持ちはいかばかりか・・・。
 
 農林水産大臣の事務所費問題って、なぜ同じことが起こるのかしら?自殺者まで出した注目のポスト。本人はもちろん、「身体検査」をしたはすの政府首脳陣の調査能力というか真剣度というか、「学習力」はもう「不認定」です。
 
 骨折から3週間。松葉杖で掌に出来た水ぶくれも破けて、やっと操作に慣れた頃、杖を外せる皮肉。今夕の検査で、順調に快復していることをレントゲンで確認しました。河口のようになっていた骨の裂け目が塞がって、線になっている。この線は?当分消えません、と若い医者。でも、快復が速いですよと褒められて、満更でもありません。毎日2回、湿布とややこしい包帯を巻く作業をやってくれた嫁ハンに感謝。ご心配いただいた皆様にも感謝。
 
 それにしても、友人達の反応。松葉杖姿を見て、驚いて心配顔で駆け寄ってくれる人。思わず笑う人。このふたつのタイプにはっきり分かれたのが面白い。笑い飛ばすヤツも好き。もちろん、病気でも、後遺症が残りそうな大怪我でもないことが大きいのですが。
 
 26日夕方、松葉杖をついて、アベノの路地裏、行きつけの飲み屋「S」へ。再開発のため立ち退きを迫られる中、がんばっていた最後の一軒でした。27日強制執行が入るというので先日も行ったけど最後の夜なのであえて出かける。6時にテレビ取材が入るというので、それを避けて7時過ぎに行ったのですが、もろに取材とぶつかってしまう。
 
 店は永年の馴染み客で満席、それを予測して、我々は面の路でビールケースをテーブルと椅子にして即席のビアガーデン。ビールだけ店から運んで、アテはみんな持ち込み。あたりはみな立ち退いて、空き地になっているので、唄い放題、騒ぎ放題。マスターを囲んで最後は「ホタルの光」。
 
 私は20年足らずの付き合いですが、30年を超す常連さんも。決してキレイではないかもしれないが、暖かくて、ごちゃごちゃして、いろんな人を包み込むことが出来た大阪独特の下町の風情を残す空間を、ブルドーザーでなぎ倒して、どこにでもあるような無機質で清潔な、「おじさん」「オバチャン」の飲兵衛には魅力のない商業空間を造り出してしまう。それは再開発という名の一種の破壊です。大阪市はどれだけ失敗したら学習するのだろう?
 
 昨夕の取材は今夕の毎日放送「ヴォイス」で放映されていました。店内はもちろん、野外のわれわれの宴会風景、友人の心打つコメントも映っていました(私は後ろ姿がちらっと)。そして、今朝の強制執行の様子。ヘルメットを被って立ち会うマスターの姿がやつれて見えて、気の毒でした。
 
 でも、そのうちアベノ、ベルタの近くで新しい店を立ち上げるようです、もちろん、常連はそのままついてゆきます。マスター、がんばれ!それまでの数ヶ月間、常連はどうするのだろう?私?禁酒します(ウソです)。
 
最近読んだ本
 
 「狐の剃刀」「静狂記」「阿修羅の香り」「牙の扇」「緑青記」「玉の緒よ」「ダンサーの骨」「夜を籠めて」・・・短編集の題名を眺めただけで、赤江瀑さんの怪しく、隠微なエロチシズムに満ちた世界の独特の香りが漂ってきます。どれも同じような印象なのが難ですが・・(苦笑)。大ヒットはないが、固定の熱狂的ファンあり。書き続けて欲しい作家です。


2008年8月25日
 
 「 美しき もの投げ込むや せがき舟 」  子規 (明治25年)
 
 明治25年といえば、祖父母の生まれた年。当時は地方も元気?で、村にも人がいっぱいいて、松山近辺でも、施餓鬼行事が盛大に行われたことでしょう。今は夕刻の数時間、あっという間に終わって、ひとも散ってしまいます。
 
 日経新聞によると、日本オリンピック委員会(JOC)を通して国が投じた選手強化費は、アテネ五輪翌年からの4年間で80億7000万円。アテネ以前の4年間の5割増しだそうです。あと、ナショナルトレーニングセンターの建設がカヌーやバドミントン、フェンシングの躍進に繋がったという。
 
 「フジサンケイビジネス」によると、これに、メダル選手達の肖像権を管理してスポンサーを募る「シンボルアスリート」制度なるものがあって、これの収入がこの4年間で80億円。これも選手強化費に分配されたそうです。
 
 これを多いと見るか少ないと見るか。まあ、一都市主催の大会に国家予算をふんだんにつぎ込み、北京市内のインフラ整備だけで兆を軽く超える投資をした国と比較は出来ませんが・・・。もう愚かな国別メダル数競争は止めるべきでしょうね。
 
 今夕も・・・モンスターペアレントから延々の抗議電話で、同僚が苦慮している。離婚して親権を失った方(父親)には生徒のプライバシーは教えられません。それを、教師を無能よばわり、悪口雑言・・・傍で聞いていてこちらも腹が煮えくりかえる。受話器を奪い取って、怒鳴りつけてやりたい。でも、若い同僚は粘り強く、我慢強く、丁寧に対応、説得を続ける。えらい。
 
 教師を疲弊させるものは、ややこしい生徒ではなく、ややこしい「大人」なのです。大人と思うし、大人の対応をしなければならないから疲れるのです。相手が「大人の対応」ができないのに・・・。
 
 最近こころに残ったひと、言葉
 
京谷(きょうや) 和幸さん  (北京パラリンピック 日本選手団主将) 赤旗日曜版 7月13日の記事から
 
 車椅子バスケットの選手。もと、ジェフ市原(現、千葉)のJリーガー。輝かしい未来があったはずの22歳の秋(93年)に、交通事故に遭う。脊髄損傷で車椅子生活に。94年から千葉ホークスで車椅子バスケットを始める。
 
 現役時代は「傲慢だった」。監督にも反発ばかり、事故にあってから「これではいけない。ひとを認め、ひとのことを考えよう」「『ありがとう』の言葉がうれしくて。また、だれかの為にと思えた。足がだめになった分、心がゆたかになった気がします」モットーは「顔晴れ(がんばれ)」「どんな時も笑顔で乗り越えようと。楽しまないと、なにも生まれないと思うから」。
 
 「楽しむ」という言葉の重みが違います。15年間彼を支えてきた奥さん(陽子さん)は、事故当時、婚約者。彼女が訝しがる彼、反対する双方の両親を説得して、強引に入籍をしたのだそうです。「一生分泣いて」奥さんの励ましで立ち直ったのとのこと。
 
 9月の大会で、彼と奥さんの笑顔が見れますように。車椅子バスケットは結構激しく、危険も伴う競技です。
 


2008年8月24日
 
 昨日、冒頭に記載(その前も)の「歌壇」は「俳壇」でした。失礼しました。
 
「黒電話」の作者は堀江敏幸さんです。
 
 「割り勘の 宣言 ビール 自分に注ぐ」 新聞俳壇 投稿句より  塩尻市 神戸さん
 
 そう、初めにきちんと言っておけば、後は安心。出来れば支払いも最初にしたいくらい。
 
 男子マラソンで優勝したバンジル選手は、たしかゼッケンが2263でした。確かタイムが2時間6分32秒。これって偶然にしては出来すぎていませんか?ちょうど、小川洋子さんの数学を題材にしたエッセイを読みながら見ていたからかもしれませんが(笑)。
 
 日本選手、世界13位も立派。76位で完走も立派です。仙台育英に留学していたというバンジル選手が、インタビューに日本語で「日本で我慢するということを学びました。今日は我慢しました」と応えていたのが印象的でした。
 
 フェンシング界の新しい「王子」、太田選手、人気です。テレビ取材に応えるご両親が面白くて、ステキでした。
 
 銀メダルが決まって、テレビ観戦の両親は自宅居間で万歳。帰国したら、どう迎えますかと聞かれ、お母さんが「恥ずかしいけれど、ギューしてチューしてやりたい」傍からお父さんが「そんなら、帰って来ないよ」と突っ込むと、慌てて「あ、困る、帰って来て下さい!」
 
 太田選手、帰国して、帰宅(そこまで取材するか?)。玄関で出迎えたお母さんが、やはり抱きしめようとすると、するりと抜けられる。居間で、お母さんは銀メダルを胸に掛けられ、傍のお父さんから「ママが生んだ子だよ」と言われて、涙ぐみ台所へ駆け込む。
 
 太田選手はお父さんにビールを注いで、改まらなくていいと言う父親に「フェンシングをやらせてくれて、ありがとうございました」ときちんと頭を下げる。この流れは「やらせ」と思えない自然さ。この親にしてこの子あり。
 
 最近心に残った言葉
 
 鈴木敏夫さん  ( スタジオジブリプロデューサー )
 
 「宮崎監督の映画作法はテーマからではなく、『どんな髪型か』といった『極端な細部』から発想が始まる。
 
何かやるとき、大切なのは二つ。普遍的にいいものをつくる。今なぜやるのか。その両方を満たさなければ」
 
この人の辛抱がなければ、ジブリの名作群は生まれなかった・・・と、本人も言っています(笑)。
 
 黒柳徹子さんのカンボジアレポートから
 
 「まだ400万から500万の地雷が埋まっている。今も毎年、約450人が亡くなっている。ほとんどが若い人。昔は事故で被害に遭っていました。今は危険を承知で、金属片を売ってお金にするために、地雷や不発弾を探して命を落とすことが多い。それだけ貧困が深刻化しているのです。」
 
梶 よう子さん(作家)
 
 「江戸時代には文化と幕末に2度朝顔ブームがあった。掛け合わせてつくる「変化朝顔」。その中に「幻の一朝」という黄色い朝顔があった。
懸命に朝顔を育て続けた者だけに、一生に一度、黄色い朝顔が、ご褒美として咲いてくれる。どんな朝顔も出会いは一期一会、一朝の夢。」

2008年8月23日
 
「 口中の 海蛸(ほや)に溺れる 漢(おとこ)かな 」 新聞歌壇 投稿句 横浜市 高原さん
 
 「溺れる」というのが海の幸を際立たせます。酒はビールか焼酎のロックかな?
 
 一昨日の朝、通勤中の車から、西の空に虹を見ました。8月始めのNHKの深夜番組で「真夜中の虹」を放映していたのを思い出しました。南米イブアスの滝で満月の夜、滝上に虹がかかるという伝説があり、それを数ヶ月の取材の末、世界初の撮影に成功し、伝説を実証するというもの。虹は白っぽく、鮮やかなものというわけではありませんが、幻想的な景色ではありました。
 
 それでさらに思いだしたこと。テレビも無かった小学生の頃、夏の夜の楽しみは盆踊りでした。あちこちの軒先での練習を経て、きちんと?踊るのは夏に4回。@寺の前庭、A旧庄屋さんの庭(今は廃屋)、B宮ノ下の広場、そしてB村はずれの「お滝」の畔の観音さんの境内。その時には音頭(口説き)のうまい「しょうちゃんとこのおじいさん」が最後に歌って、みんなの踊りが急に妙にぴしっと締まる・・。そんな記憶があります。
 
 小学校5年か6年の、お滝の踊りの夜、滝の上の空に不思議な白いアーチを見て、みんなであれも虹かなあ、と話し合ったものです。夏休みが終わって、授業の中で担任の青野先生(ご専門は理科)が、「松尾(私の村)の子の書いた日誌に、みんな夜の虹のことがあったけれど、そんなことあるのかなあ」と不思議そうに言ってはりました。今思えば、言下に否定されなかったのがえらいと思う。もう、かすかな記憶で自信はありませんし、日誌ももちろん残っていませんが、やはりあれは虹だったのかなあ。
 
 22日の準決勝。金メダルが絶望になったからといって、負けて泣くな、「星野ジャパン」の選手達。今日の3位決定戦に賭けるべき。これから歯医者の定期検診に行ってきます。今日は米国をリードしてしているようです。(ここで中断)
 
 歯医者から帰って来たら、負けておりました(苦笑)。エラーしたGG佐藤はしばらく叩かれるかもしれませんね。でも、先日の新聞に「日本は基本的に敗者に優しい国、中国のあの厳しい敗者や棄権者へのバッシングはえげつないが、それだからこそ、強くなるともいえる」とあったけれど、それはちょっと違うように思います。
 
 国威、国益を前面に出して、ものすごい強化費や報奨金、待遇を用意している国々に比べれば、日本の「緩さ」はまだ良い意味で成熟した社会の証とも思われるのです。
 
 あ、それにしても日本も結構オリンピックに税金つぎ込んでいるのですね。あの多種類のユニフォームやブレザー、女子選手の胸だけに光っていたスワロフスキーのロゴ・・・。結構、不必要な贅沢、出費もしているような気がします。
 
 お金の使い方にもっときちんと目を向ける必要があるのでしょう。橋下知事には文句がいっぱいあるけれど、府庁のWTCへの移転は新しもん好きの私には新鮮な案に聞こえます。本来は大阪市が移転すべきでしょうが・・・。今のままでは「もったいない」。でも、移転等に関わる費用で更に財政圧迫したのでは、我々の給料をカットした意味がありません。
 
今日読んだ本
 
「みんな夢の中」 久世 光彦
 
 臨終の時に聴きたい歌。マイ・ラストソングの続編。この人の琴線とどこかで通じ合っている感じがします。「ゴッド・ブレス・アメリカ」「林檎の木の下で」「海ゆかば」「カタリ」「北へ」「星影の小径」・・・こころ揺さぶられる歌、気になって忘れられない歌の歌詞とメロディ(楽譜も添えてある)が次々蘇り、うんうんわかると頷き続けます。
 
 「海ゆかば」は「皇国思想」と片づけられて、今は歌われることもないが、名曲だ、希有な鎮魂歌だ、という説には個人的に大賛成。「君が代」に感動は覚えないけれど、「海ゆかば」を聴くと泣きます。歌えます。
 
 「みんな夢の中」は最初聴いた時、なんて変な歌、ねばっこい歌い方だろうと嫌悪感すら感じましたが、ずっと頭から離れません。名曲の所以でしょう。それにしてもこの歌をいしだあゆみさんに、「19の春」を田中裕子さんに、耳の側で唄ってもらえる作者はうらやましい。


2008年8月21日
 
 「 この頃の 朝顔藍に 定まりぬ 」  正岡子規 (明治31年)
 
 職員室前に植えた朝顔、夕顔の芽が3メートルくらいに伸びきって、咲き仕上げの時期に入ったようです。いろんな色を植えたのですが、今回は藍や紺より、赤が元気あるみたいです。
 
 授業開始。最初の教材は「黒電話」。孫に黒電話をせがまれた主人公が、おもちゃ売り場を探すがみつからない。退職したばかりの職場に不要になったものがあったのを思いだして、貰いに行く。孫の翔太クンは狂喜するが、使用するには電話の契約を変更しなければならないので、主人公の息子(翔太の父親)は渋るが、折角のおじいちゃんの好意だからと、嫁の多恵子さんが押し切る。実は彼女も黒電話の柔らかい音、じーこ、じーこ、とダイヤルを回す行為が好きだったのだ・・・。
 
 「機能性」や「速度」を追求して、柔らかさ、うるおいを失ってゆくデジタル社会をさらっと描いて皮肉る小品。生徒の心に残ってくれればいいけれど。
 
 昨日の記事の一文が私の操作ミスでまるごと抜けていました。
 
「豊饒の海」に関する文章で、「春の雪」と「暁の寺」の間にー
 
「『奔馬』で飯沼勲は〈庭〉から枝折り戸を抜けた蜜柑畑で割腹する」という文が入っておりました。
 
松枝清顕、飯沼勲、月光姫、安永透と連なる輪廻転生の物語のはずなのですが、最後にドンデンが来ます。
 
授業と共に生活指導も全開。
○○くん、逮捕されました、という報告に驚きもしない自分がいます。
 
 五輪のソフトボール金メダルにも感動しました(上野選手、これぞ「エース」です)が、ボルトの200メートルの疾走に感嘆。五輪で初めて全力で走ったとういのが、ふざけているというか、桁が違うというか(笑)・・・これがオリンピックを見る楽しみです。
 
 一方で、チベットのデモへの発砲、米海軍の黒海派遣・・・きなくさいムードも拡がっています。浮かれていてはいけない。眠っている間に、歌っている間に、酔っている間に、世界は動き、時は過ぎてゆきます(シャンソン「時は過ぎてゆく」)。


2008年8月19日
 
 「 はたちの日 よきライバルに 君を得て 自らあてし 鞭(むち)痛かりき 」 
 
 堀口大学が西条八十に捧げた弔歌。「切磋琢磨」などという言葉は死語になりつつあると思っていましたが、オリンピックを見ていると鮮やかに蘇ってきます。
 
 夕刻、友人(英語教師)と会って、久しぶりに本の話と映画の話をたっぷりする。彼のように原語で読むことはできないが、自分なりに海外文学ももっと読んでいかなければと思う。目を開かされ、刺激を受ける。これもいい意味でのライバル意識?
 
 もっと映画を見て、もっと本を読んで・・・と思うと、まだ死んではいられない。昨日貰った集団検診の結果を持って病院へ。
あれ、今日は骨ですか?
いえ腸です。
精密検査の予約をする。検査の当日、朝から2リットルの水を飲めという。
そんなのムリ!ビールならいけます。
一気ではありません。2時間かけてゆっくり飲んでください。
 
 何事も未知の体験は面白そうです。
 
 三島由紀夫の「豊饒の海」は好きな作品でしたが、久世光彦さんに指摘されるまで、この四つの作品のラストシーンが「庭」で貫かれていることに気付きませんでした。
 
 「春の雪」では〈本多はきっと清顕(きよあき)の夢が我が家の庭をさすろうていて、侯爵家の広大な庭の一角の九段の滝を思い描いているにちがいないと考えた〉
 
 「暁の寺」で、月光姫(ジン・ジャン)は花の咲き乱れるバンコクの庭でコブラに噛まれて死ぬ。
 
 そして「天人五衰」のラストシーンは月光寺。〈これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。そのほかは何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏のひざかりの日を浴びてしんとしている。〉
 
 「生」が生体を離れ、「死」と手を結び、やがて新しい「生」と出会う(転生する)のは「庭」なのでしょうか?「庭」は人事と自然と宇宙が収斂したものと考え、使われているのでしょうか?面白い。いろいろあって評価の定まりきらない作品ですが、もういちど読み返してみたいと思います。
 


2008年8月18日
 
 「 これだけを 己の量と わきまえて 遠き水汲み ビルマの少女 」 新聞歌壇 投稿句から 宮城県 中松さん
 
 大昔(50年以上前ー故郷の実家を立て替える前)庭の中程にあった井戸(屋根がついていました)に水汲みに行きました。それは数メートル。それでもバケツの水は重かった。この少女は何時間も歩いて行くのです。貴重な水、必要最低限の量とはいえ、桶を担いで帰る路は遠いことでしょう。必要以上に水を使い倒す今の日本の豊さ、贅沢さ、おろかさを思います。
 
 サッポロ(カタナカで書くとビールですね)札幌、宮古島、マレーシア、ラオス・・・日本中、世界中からのお土産(お菓子)が職員室の隅に積まれ、夏の終わりを感じます。さすがにアウシュビッツの菓子はありません(当然)。
 
「カンセンセ、その足は?」という心配顔の質問に「ニュジーランドでスキーしていて、転んだのですよ」と言っても、誰も笑って信じてくれない。その上「酔ってはったんですか?」という失礼な追加質問まで・・・。やはり普段のおこないか・・・?
 
 でも、みんな親切。教師はもちろん、講習の生徒も心配してドアの開閉やら教室の開錠、施錠までやってくれる。ただ、それに甘えてはいけない。町中でも、つい、ドアを開けてくれるんじゃないか、エレベーターのボタンを押してくれるのじゃないか、と期待してしまいます。自分ならこうする、こうやってあげる(普段はやっている)と思っても、やってくれない人も多い。きちんと「御願いします」とはっきり声に出していうべきなんだ。松葉杖を使っていて、改めて学んだことがたくさんあります。
 
 それにしても、大阪へ帰るときのフェリーは怖かった。ぴっちり詰められた大型トラックの狭い隙間を松葉杖で移動するのはめちゃ危険。おまけにロビーに上がるエスカレーターには乗りにくい。更に客室へはエスカレーターもない。エレべーターはないのですか?ありません!(「ございません」やろ?)と、すげない案内係のにいちゃん。案の定、タイタニックのようなX型のきれいな階段の中程でバランスを崩す。嫁ハンのソプラノの悲鳴。からから落ちるシャンデリア、じゃなかった松葉杖(「オペラ座の怪人」か!)・・・前を登っていたおねえちゃんが助け起こしてくれる。降り向くと、さっきの従業員のにいちゃんがぽかんと見上げている・・・。骨折した右足を庇って倒れた私は左足も裂傷。
 
 足の不自由な方々、お年寄りのみなさん、愛媛へのフェリーは、こぎれいなオレンジフェリーより、がたがた揺れるけれど、時間はかかるけど、最下層の駐車場から最上階までエレベーターがあるダイヤモンドフェリーがお薦めです。
 
 足フェチの私としてはお待ちかねの競技。シンクロナイズトスイミング。脚の美しさはもちろん、鍛えられ、息のあった演技に感嘆。競泳と違って水着もカラフル。ものすごい運動量で、選手は毎日すごい量を食べまくるというのもわかります。それでもあのスタイル。新体操や体操の選手はいつも飢えているそうですが・・・。競技によって違うものですね。
 
 松葉杖での井戸、マチガイ、移動の為、また先月の健康診断で「軽度肥満」と判定されたゆえもあって、夕食を控え目にして、ダイエットに励んではいるのですが・・。
 
 最近心に残った言葉
 
 「一見逆説のようだが、逆説ではなく真実である。文明の度が高ければ高いほど、その民族の制覇は容易になり、低ければ低いほど、その民族の制覇は困難になる。特に、征服した相手を滅ぼさずに活かすローマ人のやり方では、この違いはより明白になった」
                          塩野七生 「ローマ人の物語」より
 
 なるほど、賢い人の方が説得しやすいということでもありますね。
 


2008年8月17日
 
 「文月のものよ  五色の糸素麺(いとそうめん)」  正岡子規 (明治26年)
 
 「五色素麺」(ごしきそうめん)は愛媛の名産です。基本的に白い麺の束の中に他の4色が数本ずつ入っている。昔は箸でそれを選んで、喜んで食べたものです。蕎麦は一年中食べますが、素麺は夏のものですね。あ、冬の「煮麺」(にゅうめん)も捨てがたいか・・・。
 
 朝食のデザートに梨が登場。涼しい風が吹いて、酷暑の夏も確実に秋に近づいています。といいつつ、暑さはこたえない寒がりの私、暑がりの嫁ハン、クーラーの使用は難しい問題。最終的に居間だけ、午後から28度に設定して使用(それでも嫁ハンは暑そう)。その部屋に行くときは、私はTシャツの上に長袖シャツ、ハーフパンツを長ズボンに履き替えてと色直し。嫌味にならないように、さりげなくやっているのですが、目立ちますね(苦笑)。でも、何年たってもクーラーは苦手です。
 
 今日は「施餓鬼」。義母と嫁ハンを菩提寺に送り、本堂は混み合うので、この足ではと失礼して、近くのファミレスで待機。1時間余、読書しつつ、窓際で国道一号線の流れを時折眺める。
 
 タクシーから降りてきたミニスカートの脚のきれいな女性。老齢の運転手が重そうな旅行カバンを後から降ろす。海外旅行の帰りなのでしょう。どこへ行ったのかな?つかつか歩み去ってゆく。運転手が頭を下げて見送る。タクシーは発車して、またすぐ次の客を拾う。通りの向こうのバス停で若いカップルがひとつのアイスクリームを分け合って食べている・・・。
 
 こういうゆっくりした時間を味わうことのない月日でした。いつも前面に出て、ばたばたして・・・。この夏は骨折を機会にいい経験をしました。これからの生き方を見直します。
 
 男子陸上100メートル決勝には興奮しました。ボルト。最後の10メートルは勝利を確信して流しているように見えましたが・・・驚異的な世界新。40歩、9秒69。はるかな高い次元です。昔(東京オリンピックの頃)は陸上100メートル10秒の壁、水泳100メートルは1分の壁というわかりやすいものがありました。陸上の10秒は厳しいけれど、水泳の100メートル1分は高校の大阪大会でも軽くクリアされます。今昔の感あり。
 
 「篤姫」、まだおもしろい。ここまで見た大河ドラマは何十年ぶり?セット、照明、キャスティング、演技もすばらしい。でも脚本がちょっと走り気味になってきたように思うのですが・・・。テンポは大切ですが、緩急の「緩」も大事です。
 
 今日読んだ本
 
「薔薇に溺れて」 久世 光彦  
 
 副題に「死のある風景」とあるように、「死」をテーマに綴るエッセイ78編。
 
 オープニングは女優の木内みどりさんのお母さんの話。久世さんは彼女「松さん」に一度も会ったことはありません。でも、木内さんにいつも話を聞いて、深い親しみを感じていた。
 
 松さんは生後10日で父親、女手ひとつで育ててくれた母親を10才で失う。しかし、その境遇に似合わない明るくのんびりした人柄、さまざまな抱腹絶倒のエピソードで周囲を笑わせ続けた。久世さんはそれをドラマ化したいと思っていました。
 
 松さんが亡くなって一年後、木内さん手製の遺稿集と手紙が届けられる。
 
 「最後まで意識がはっきりしていた松さんは、娘のみどりさんに卵を2個持たせてくれと何度も頼んだそうである。向こうへ行って、十歳の時から会っていない母親と二人で食べるらしい。そして松さんは「お母ちゃーん」と叫んで事切れ、みどりさんは棺に茹で卵を二つ入れた。遺品を整理していたらたくさんのみどりさんあての手紙が見つかった。書き出しはいつも『私の可愛い、可愛い、ひとり娘へ』」・・・・一度も会ったことがない人を想って、こんなに泣いたのは、はじめてである。」
 
 表紙は黒い背景の前に茶色の大輪の薔薇。久世さんはずっと元気そうで、精力的に活動、そんな気配も感じられなかったけれど、急死の数年前から「死者」を見つめ続けていたのですね。


2008年8月16日
 
 「 白髪の子に 鰤(ぶり)大根を じっくりと 煮ふくめており 死ぬまで母よ 」
 
  新聞投稿句より 岐阜県 棚橋さん
 
 いよいよ羽曳野名産、無花果(いちじく)の出番です。なんとも言えない形状、味わい。大好きです。
 
 初物の秋刀魚が出てきました。一匹100円。でも魚屋の兄ちゃんによるとあまり売れないとのこと。もう少し脂が乗って、文字通り季節が秋になって、400円くらいになってから売れはじめるのだそうです。100円のをおいしくいただきました。
 
 年齢と共に嗜好も変わってきます。子どもの頃苦手だった高野豆腐、最近おいしく炊けたものは酒のアテにいただきます。長生きして?よかった。
 
 昨日行けなかった義母のマンションに義父の仏壇お参りに。本当はすでに昨夜(15日)、帰っていってはるんでしょうが・・・。故郷でも14日の夕方、家の前の川の畔で迎え火、15日の夜に同じ場所で送り火をします。いろいろその準備もあります。今年は新婚の甥夫婦が帰ってくれたので安心。小学校教諭の真面目な甥は、新婚旅行も教育先進国?フィンランドの学校見学だとか(笑)。おっちゃんにも報告します、いや、おっちゃんは土産のお酒の方が・・。
 
 京都は今夜が「大文字」。もうあの世に帰りつつあるご先祖の路を照らすものなのだそうです。灯を目印に振り返りながら帰って行かはるんでしょう。それにしても、何百億人というすごい団体旅行ですね(笑)。
 
 私の骨折を振り出しに、出入りの激しかったこの夏の実家。母は大変ですが、みんなに会えて喜んでいたようです。とどめはうちの下の息子(苦笑)。明日の仕事明けに直行するようです。
 
 今日読んだ本
 
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」  リリー・フランキー
 
 ブームが去った(まだ舞台でもやっていますが)頃に読むベストセラー。泣いた、泣けたという話をさんざん聞いていましたが、そのせいもあってか?イマイチでした。
 
 小説というより、自伝的手記。個性的、魅力的な登場人物のはずなのに、暴露的な部分と微妙な美化が錯綜して、オカンにも思い入れ出来ませんでした。「親を看取る」という、多くの人が直面する問題をリアルに描いているのが共感を呼んだのでしょう。確かに、最後の治療、付き添い等をどうするか、答えの出しにくい問題です。
 
 うちも他人事ではありません。個々の症状によって違いますが、やはり終末の抗ガン剤治療は止めた方がいいのかなあと思いました。
 
 地方と東京、青春の模索と自立、孤独、母と父と子、家族というもの・・・それぞれまだ「生」のままで、普遍化には至っていません、それが「小説」ではない所以でしょう。でも、確かに映像化するにはもってこいの題材です。
 
「家族関係は神経質なものだ。無神経でいられる場所ほど、実は細心の神経を求める。ひびの入った茶の間の壁に、たとえ見慣れて、それを笑いの種に変えられたとしても、そこから確実にすきま風は吹いてくる。笑っていても、風には吹かれる。」ここまではいいのです。でも、そのあとの「立ち上がって、そのひび割れを埋める作業をしなくてはならない」というところが、このフランキーさんの経歴からくる思いこみじゃないかな。それではしんどい。いろんな家が、茶の間が、壁があるのです。
 
「私の男」 桜庭 一樹
 
 前回の直木賞受賞作。
 
 「私の男は、ぬすんだ傘をゆっっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮れよりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼の古びた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる・・・」
 
 これが冒頭文。 うまい!私の男のイメージが一気に浮き上がってきます。体験に基づいていようがいまいが、こちらは「小説」。この時代の「男と女」がきっちり描かれます。絶賛(浅田次郎さんー文学の正統)と批判(林真理子さん「嫌悪感」)が交錯したのもわかる。
 



2008年8月15日
 
 今年の葉月は新暦とタイミングが合いました。今日は旧暦7月15日。柔らかな色の満月が上っています。今年は来月、9月14日が中秋の名月です。
 
 下の息子の誕生日。肉とケーキと今日はビール(プレミアム!)で祝う。来年の今日はきっと結婚していて、どこかで若夫婦で祝っているよな、とプレッシャーをかけたのですが、お母さん、僕の老後もよろしく!何言ってるの!?お母さんの老後はどうなるの?大丈夫、お母さんの若さと美貌は永遠です!などとほざいて全然応えていない様子。困ったもんです。
 
 足の具合は昨日検査したところ、順調に回復中。骨もずれていないので、手術やギブスの必要なし。このまま添え木で様子をみようということになる。先生に御願いして、添え木の踵を補強してもらう。大分楽になりました。
 
 松葉杖の扱いに慣れたころに外せるのでしょうね。掌にタコが出来ました。
 
 あと10秒のところで、ほとんど手にしていた金メダルが掌からこぼれてしまう・・・女子柔道に限らず、人生って、勝負ってそんなとこありますね。
 
今日読んだ本
 
 「幇間(たいこもち)の遺言」 悠玄亭玉介 (ゆうげんていたますけ)  聞き書き 小田 豊二
 
  昭和10年、日本に幇間は470人いた。東京に300人。そして、平成最後の幇間が病床で、自分の死期を知りつつ、明るく闊達に赤裸々に経歴、そして歌舞伎の名優を含む客や芸者達との交流を語る。その語り口が面白い。
 
 座敷では客の名前は呼ばない、場所が場所だけに、客が他の客に名前を知られるとまずいこともある、だから「サーさん」「ターさん」で通す。
 
 「提灯屋の字」・・・教わったことだけを書いていて、形はきれいが字が死んでいる。芸も同じ。玉介さんは落語、歌舞伎、日本舞踊、三味線などの修行を積んでいる。毎年、歌舞伎座の正月興行初日に獅子舞をするのはこの人でした。
 
 ゲンをかつぐ。言霊信仰が生きている世界。「すり鉢」は「あたり鉢」、「剃刀」を「あたりがね」、「髭を剃る」は「髭をあたる」、「箸」は「端」に通じるので「お手もと」、「おから」は「空」に通じるので「卯の花」。「えんどう豆」は「縁遠い」に通じるので「えんちか豆」・・・なるほど。
 
 芝居通は初日、中日、千秋楽と3回見る。初日は真剣勝負、中日はだれ具合、楽日はどれだけ役者が遊んでいるかを見に行くのだ。贅沢!
 
 師匠のまねをしてとことんその人になる。すっかり頭に入ったら、そこから抜けて、自分の味をアレンジして芸にする・・・。
 名人というのは若いときは職人。職人がいろんな経験を経て、名人になる。
 
 落語、講談、浪曲、演芸、三味線の名人、歌舞伎の名優たちを身近に見た聞いたその述懐だけでも意味があります。
 
 六代目菊五郎は天才。だから、いつもマイペースで、踊りもマチマチ、失敗しても客が気付かない・・・写実の芸で、東京では大受け、地方では受けない。ライバルでコンビの初代吉右衛門は不器用だが、たっぷり見せる。地方で大人気だった・・・なるほど。菊五郎と対極の存在が七世の三津五郎。こちらは踊りの名人だが何回踊っても、舞っても、同じ位置でぴたっと止まる。踊りの手本はこの人。菊五郎は手本にできない。うーむ。
 
「てんぷら」・・・落語の高座で羽織り)だるま)を脱いで置いたのに、次の演者が来ないので引いてくれない。「高座に上がりっぱなし」のこと。昔の東京は寄席が多く、みんな掛け持ちをしていたのですね。
 
最後のインタブビューでめずらしく教訓を述べます、この後、死去。
 
「積もって倒す雪よりも 、重みで倒される竹になれ」
 
「倒されし 竹はいつしか立ち直り 倒せし雪は 消えてなくなる」
 
「一生は一升に通ず」人間は一升マス。無理に入れてもこぼれてしまう。こばれない程度に注いでいかなけりゃ。人生、八合五勺。
 
「親切な人」より「よく気が付く人」に。
 
「一怒一老」怒らないこと、クヨクヨしないこと、過去にこだわらないこと  
 
ありがとよ、はい、ごくろうさん。


2008年8月14日
 
 「堂々と 人間を殺す方法を 考えている 戦争なれば」 新聞歌壇投稿句より  長崎市 牧野さん
 
12日でしたか、日航機事故から23年、北朝鮮による拉致から30年。23年年前の墜落事故時は故郷のスナックで弟と飲んでいました。30年前の拉致事件はニュースすら伝わりませんでした。明日は63年目の終戦記念日。
 
 13日、車が運転出来るようになったので、義母、嫁ハンを積んで大阪市内にある義父の菩提寺に墓参り。まず、天神橋商店街のいつもお供え花を御願いしている花屋さんに半年分の支払い。一万円余。ビルの谷間の墓地は緑もなく太陽に灼かれている。古い墓石は空襲に灼かれてひび割れたり、黒ずんだりしている。
 
 夕刻、河内長野で前任校のPTA仲間が集まる。年一回集まっているのですが、近年、中国で働いておられる方が一時帰国されたので、その方を囲んでの番外編の宴会。まあ、みんな元気で賑やかでうるさいこと。仕事を持ち、趣味を持ち、ボランティアもしながらイキイキと生きている。フラダンス、スノーボード、テニス、バーレーボールと趣味も多彩。ヨン様を関空に歓迎に行ったという人も・・・(見えなかったそうですが)。今回も元気を貰いました。また会うのが楽しみ。Aさん、このHPを見てくれているのですね。また、メール下さい。
 
 先日の日経新聞によると今まで信じ込んでいた「京都に空襲がなかった」というのはウソで、実際にそれを体験した学者の文章が掲載されていました。空爆は数度に及び、死者は数十人、はね飛ばされ、内蔵を晒して、木に打ち付けられた近隣の人々の姿を描いていました。他の都市に比べれば、被害は少なかったというものの、事実の公表に拘り、近年、慰霊碑も建てられたそうです。
 
 車通勤を申請して学校へ。蝉の声が弱まってきています。先生方のお陰で朝顔も夕顔も健在でした。
 
 谷本歩実選手の見事な「うちまた」に感動しました。でも、実は渡航時時の航空機トラブルによる長時間の着席で痛めていた腰をさらに痛め、それを庇って決勝まで寝技で勝負していたのだそうです。
 
 200メートルバタフライ、松田選手の力泳にも感激しましたが、優勝したフェルプスを襲ったアクシデント。泳いでいるうちにゴーグルが壊れて水が入り、前が見えないまま勘でターンを続けて、世界新記録。強い。北島も心身共に強い。
 
 先日書いた、元気な笑顔の水泳の10代女子選手は北川さん、そして背泳男子の入江くん、体操個人総合の銀メダル内村くん。伸び伸びした泳ぎ、演技が見ていて実に気持ちいい。もちろん冨田選手等の円熟した演技もすばらしかったですが・・・。
 
 卓球、激しい打ち合いで68回のラリー。すごい。見ていて力が入ります。さまざまな勝負の綾。勝敗は紙一重というケースも多い。
 
 フェンシングはかっこいい競技です。白いユニフォーム。長く伸ばした手足。特に女子選手。試合後ヘルメット?を外して、首を振って長い髪を解き、靡かせる・・・。うっとり。銀メダルに輝いた太田選手は「怪傑ゾロ」に憧れてこの競技に入ったそうです。
 
 怖いのは報道。中国では日本のコンビに敗れた女子バドミントンのNO1コンビにバッシングの嵐とか。「この厳しさが中国の強さの秘訣」という新聞評ですが、それはどうかな。こういうときこそ、「たかがスポーツ」と思いたい。国家の思惑と利権にまみれたものとはわかってはおりますが・・・。
 
 南オセチア紛争。EUが動きだしたと思ったら、今度は米軍のグルジア派遣。緊張はより高まりつつあります。建前優先の「平和の祭典」とはあまりにかけ離れた現実。毎日、戦争という名目(正義?)の下、多くの人が殺されているのです。
 
 最近読んだ本
 
「忘我のためいき」  小池 真理子
 
 表紙がステキです。フランス女優のジャンヌ・モローが伏し目がちのけだるい表情で顔ほども大きなブランデーグラスを傾けている。右上からのライトで長い付けまつげ、高い鼻が深い蔭を落とし、グラスの屈折であの大きな下唇がさらに大きく浮かんで官能的。彼女を始めとする作者の好きな個性的な俳優が熱っぽく語られる。時には役柄をはみ出して迫ってくる一筋縄でゆかない俳優達。映画の魅力のひとつはたしかにこれです。
 


2008年8月12日
 
 赤い夕陽。夕刻の天王寺デバチカで、傷み桃を一個100円で4個、嫁ハンが買って来ました。
 
 新しい葡萄、(なんとかルビーという名前)が発売される、一房12万円とか、ひえー。
 
 夏季限定のレトルトカレー「ビーフカレーLEE辛さ×30」発売中。これにはインドの唐辛子「ジョロキア」が付いていて、更に15倍増強されるらしい。この夏休みの間に食べるのが課題。294円。
 
 ブランデー「レミーマルタン ルイ13世ブラックパール・マグナム」が発売。世界で358本。日本に30本。1500ミリリットルで420万円!単純にショットグラス30ミリリットルで割ると一杯8万円ちょっと。でも中味は並の「ルイ13世」(700ミリリットル16万円位)と同じらしい。なんで?違いは入れ物。バカラ社特製のボトルに入っているからなのね。デパートに飾ってあるのを見るだけにしよう。
 
 柔道、谷本さんの見事な「内股」(投げながらもう笑っていた)一本で決めた金メダル。怪我をして、迷って、一本に拘った人の明るい笑顔。
 
 野口選手の欠場、残念なのは一番本人でしょう。でも、仕方がない。
 
 水泳の十代の日本人女子選手。もちろん平成生まれ。インタビューに「笑顔で突き進むだけです」。いいコメントです。
 
 リーグ戦で何試合も出来る場合がある球技と違って、柔道などはあっという間に敗退してしまうこともある。そして「彼の北京の夏は終わりました」などとアナウンスされている。でも陸上はもっと儚い?100メートルなどは10秒ほどで一発で終わってしまうこともあるのですね。
 
 足のしびれは残っていますが、なにより松葉杖が疲れるので遠出ができない。友人や息子に甘えていたけれど、今朝、車に乗ってみると、添え木だけなので、案外容易に運転できることを発見、俄然元気になって、早速、市立図書館に本をリュックに背負って返しに行く。この足で、遅れましたすみません、と謝ると、いえいえ、お大事にとやさしい対応。返却催促の電話の前に持って行けてよかった。
 
 新たに5冊借りて帰り、読みふけっていると、河南町の友人からメール、すごい夕立ですよ、雷鳴も、大丈夫?慌てて洗濯物を取り入れる。でも、こちらにまでは来ず、美しい夕陽が臨める有様、今年はほんとにゲリラ的豪雨が当たり前になってきましたね。
 
 明日の宴会に備えて酒を控えていたのに、夜、若狭名物「ささ漬」到来。これは飲まずにおれない。新鮮な小魚に酢と塩の効いた味に思わず発泡酒2缶飲んでしまいました。なでしこジャパンの活躍に一層おいしい酒でした。
 
今日読んだ本
 
 「マイ・ラスト・ソング」 久世 光彦
 
 死ぬ前に、最後に何を聴きたいか?自分の最期を予期していたかのような、名ディレクターにして作家の作者のテーマエッセイ。懐かしい歌、人々が次々登場。美空ひばりの「二人の瞳」の項。
 
 「・・・いわゆる鼻歌まじりに歌う歌が、このごろは本当になくなってしまった。これをやらせたら美空ひばりの右に出る歌い手は、まずいない。ひばりも晩年は何やら悲劇的に見えたけれど、こんな気持ちいい歌を鼻歌交じりに歌っていたこともあるのだから、「悲しい酒」や「川の流れのように」のような暗い歌ばかり思い出すのはよくないのかもしれない。重たくもなく軽くもなく、浮いたり沈んだりはしても、溺れないで済めば、人生まずは祝着である。」
 
 最後に触れる歌は、「東京ドドンパ娘」「暗いはしけ」。この幅、この感性。
 
 
行く人(8月12日記入)
 
アイザック・ヘイズ さん(米 ソウル歌手 テネシーの自宅で死去しているのを発見される 65才)
 
 1971年の映画「黒いジャガー」のテーマソングは、斬新でしゃれていて、大好きでした。
 
水原英子さん (女優、腎不全、65才)
 
 「民芸」の中堅女優。テレビでも活躍しました。素敵な女優でした。弟さんが喪主ということは独身だったのでしょうか?


2008年8月11日
 
 「 青柿を踏み  もう許すことはない 」 新聞投稿句より 神奈川県 石原さん
 
 いつもいつも我慢することが多い人生。息子達にも我慢せよと言い続けて来たけれど、この年になれば、どこかで解き放たれてもいいのでは、と思います。思い切り喧嘩をしたり、悪口雑言を吐くことが自分にとって必要なこともある。
 
 「噴水の 秀(ほ)につかまって 退院す 」新聞投稿句より 松戸市 横山さん
 
 闘病中の友人が多い。先月末、リンパ腺癌と闘病中の友人が退院。でも味覚障害でビールも欲しくないとか。あの酒飲みが・・・。噴水の頼りない、でも清冽な杖にすがっても生きていて欲しいと思います。
 
 友人に送ってもらって出勤。準備室の観葉植物に水を遣り、松葉杖を見て駆け寄って来た同僚達に怪我の報告をする。初旬にあった高卒検定試験の出来が気になっています(うちのグループは4名受験)。メールを送ったら、あかんかった、まあまあ、どないしょうという反応。発表は今月末ですが、もう今年度第2回の応募要領が来ていました。
 
 日々、衰えてゆく心身。昨日もめがねを掛けてめがねを探していました。でも新しい発見も日々あります。
 
 新しい歯科衛生士に指摘して貰ったこと。奥歯の奥が磨かれていませんよ、歯垢が溜まっています。ああ、そうか、歯は板状で表裏と思いこんでいましたが、奥歯は特に立方体。4面の手入れが必要なのですね。歯間ブラシは使っていましたが、奥歯の奥は肉も盛り上がっていて磨くのが難しい。口を大きく開けずに、歯ブラシをゆっくり差し込んでブラシの先でかするようにするのがポイントだそうです。
 
 北島選手の精神力に感嘆。緊張の極致でも、冷静にストロ−ク数をコントロールすることができるのですね。奥村クン、決勝進出、世界のトップスイマーなんだ。すごい。
 
 60過ぎても心身共にお元気だったのは文豪、谷崎潤一郎。その源は女性へのあくなき執着、そして女性にいたぶられたいというマゾヒズム願望。千葉俊二さんによると、晩年の谷崎のミューズは、松子夫人(「細雪」ヒロインのモデル)の妹の息子の嫁さん、渡辺千萬子さん(現、小田原在住)。日本画家、橋本関雪のお孫さんでもあり、谷崎より44才若く、4年間の同居生活で作家の創作意欲を刺激、「瘋癲老人日記」はここから生まれたのだそうです。すごいなあ。私も息子の嫁ハンに期待しよう(ムリ?)。


2008年8月10日

「 月代(つきしろ)に 夢見て飛ぶか 蝉の声 」  水田正秀

「月代」は「月白」。蝉の命も儚く、盛夏から晩夏に至り、アブラゼミや熊蝉は蜩やつくつくほうしに主役交代します。

 「瀬古多津治展」も無事終了。でも、なぜかどっと疲れが・・・。「人疲れ」なのでしょう。

 9日の朝刊。オリンピック開幕より「南オセチア紛争」の方がトップ記事になるはずではないのでしょうか?まさに「戦争と平和」。選手村でグルジアとロシアの選手はどのように対応しているのでしょう。

 昔、富田林のスイミングスクール。木曜の夜、選手育成コースで泳いでいた奥村クンが今、北京のオリンピックプールで男子200メートル自由形予選でフェルプスと同じ組で泳いでいる。準決勝進出。あの時、隣の成人コースで泳いでいたおじさん(私)は感無量です。

最近印象に残った言葉

 「狂気は重力のようなものだ。トンと押せば、だれでも簡単に墜ちてゆく」映画「ダークナイト」のジョーカーのセリフ。このセリフに説得力を持たせるヒールを演じたヒース・レッジャーはこの映画完成直後に急死。薬物の誤用と言われていますが、かれも「墜ちて」しまったのでしょうか?主役のバットマンを演じた、クリスチャン・ベールもDVで逮捕。スキャンダルにもめげず、映画は大ヒット。わからないものです。

昨年、パリコレにデビューした娘、山本里美(34才)に父、山本耀司が数年前に送った言葉

「体形を無視した面白い服じゃないか。まじめに勉強しなくて本当によかったなあ」・・・これから必死で勉強します。



2008年8月9日
 
 元同僚に迎えに来て貰って、河内長野のカフェ・ギャラリー「ほたる」での瀬古多津治さんの個展へ。一日、受付当番。思いがけない出会い、再会がいっぱいあって、楽しい一日でした。
 
 瀬古さんとは9年前まで、13年間ご一緒でしたから、重なっている教え子、元同僚も多く、懐かしい顔が次々現れてくれて、ワイワイ言っているうちに一日が終わりました。瀬古さんも、昼から奥さんのお車(特別仕様)で登場。段差のあるギャラリーへ下りてもらうため、板を渡して車椅子を後ろ向きにして・・・私は、役に立たないので、そこの若い衆(し)、来て!ああして、こうして、と指示を出させてもらうのみ。年齢と松葉杖がモノを言って?みんな本当に協力的。
 
 ばたばたしていると、背中をトントン。振り向くと30年前の同僚。え、なんであなたがここに?彼はこの春、退職、難病と闘いつつ療養中のハズ。家は八尾。伸ばした髭の奥の目が、相変わらずやさしく笑っている。あ、そうか、先日書いたこのHPの記事を見て来てくれたのですね。いや、ちょっと散歩がてらに・・暑い中、ありがとう。
 
 2年前に亡くなった先輩の奥様、PTA係をしていたころのお母さん達・・・30日の朝日新聞の記事の力ももちろん大きかったようです。
 
 それにしても、瀬古さんの記憶力のすごさ。20年ほど前の、クラブ(バドミントン)の生徒の名前を、今の顔を見てパッとフルネームで言える(私にはムリ!)。その学年の部員の人数や、戦績も憶えてはる。昨日の記憶はアイマイなのですが・・と笑ってはるが、アンタ、ホントに脳の血管キレたん?とツッコミを入れる。30代くらいになった元女子部員が私くらいの年齢のお母さんを同伴して来て、改めてお礼を言っている(4組ほど)のも微笑ましい。子連れももちろん多い。瀬古さんの発病、退職後、初めての対面というので、泣いている教え子も結構いました。来客40人余り。瀬古さんのお人柄です。
 
 あと一日。どんな出会いがあるのでしょう。ここんとこ「遙か群衆を離れて」という心境に近づきつつあった?のに、今日は、やっぱり人間関係っていいいなあと思い知らされました。
 
 閉館間際にやってきてくれた別の元同僚(彼女は8月8日午後8時生まれ!おめでとう!)に車で家まで送ってもらう。途中ですごい雷鳴豪雨。家に帰って見回すと、南は薄暗く、稲光と豪雨、東西は曇りで雨は降っておらず、北側は晴れ。なんちゅう天気や。
 
 谷さん銅メダル。素人にはわかりませんが、あれだけの選手が攻めきれなかったのだから、相手はそれほど強かったのでしょう。
 
 オリンピック開会式。チャン・イーモウの見事な演出、1万人を超す出演者のパフォーマンス。すばらしいショーでしたが、やりすぎ。長すぎ。スペクタクルショー大好き人間の私も眠くなりました(飲み過ぎもある)。なんで一都市主催のはずのスポーツ大会に、あれだけ金と手間をかけて開会式やらんとあかんの?ナチスドイツ時のベルリンオリンピック「美の祭典」を連想したのは私だけでしょうか?
 
 それにしても、あちこちにすごい美女がいるもんですね。オマーン選手でハイヒールを履いて行進していたおねえさん、足痛くなかった?
 
 


2008年8月8日
 
「 猟師の妻の 虹に見とれる 」  武玉川より
 
 江戸期の七七の韻文集。山の夕暮れ、夫はまだ帰って来ないのでしょうか。夕立の後、心配して外に見に来たのですが、思わず目の前の東の谷に大きな虹を見つけます・・・。

骨折の件、やはり、あちこちからメールをいただきました。ご心配をかけました。昨夜遅く、同僚からのケイタイメールについ返歌してしまいました。

 
「 いささかは 足痛けれど アルコール 消毒はデイアンド ナイト忘れず 」
 
怪我のお陰で?初めての夏休みらしい夏休みを満喫しております。テレビもつい見てしまいます。
 
 今朝はワイドショーで姫路沖に浮かぶ小島からの中継をみる。瀬戸内海で唯一、人口が増えている島だという。8割の人が漁業に従事。若いお笑いコンビがゆきあたりばったりの取材。港で出会った若い漁師。父を海で亡くし、19才で一家の柱として母を支えている。今朝は3時起きで白魚を獲りに行ったという。えらいっ!と褒めるレポーターに、島には10代の漁師が結構いるんですよと平然。見ているおじさん(私)はジーンとくる。
 
 島にたったひとつの診療所にも若い医師がひとりだけ。姫路の人で、開発途上国へ行こうとしたら、先生から目の前にも医者のいない村があるよといわれてやって来ました、人に必要とされることが人の幸せですとさりげなく言う。あんたもえらいっ!老人が多いので、歩いて往診してまわる。おばあちゃんに手ずから薬を飲ましてあげる。その家のお嫁さんが、私の薬には毒があるといっていやがるのに、先生からの薬は喜んで飲むのですよと笑って言う。
 
 市場に近くて、若い漁師でも生計を立てられ、無医村でないこともこの島が衰退しない原因なのでしょう。
 
 昨夜のオリンピック、サッカー男子の試合は見ていていらいらしました。「荒れたピッチ」は言い訳にはなりません。足らないのはガッツ。気になったのは押していた前半の最後のプレー。折角、コーナーキックを得たのに、日本選手が水を飲んだりしてもたもたしていたら、キックを蹴る前に終了の笛を吹かれてしまった。このいやなムードが後半早々の唯一の失点に繋がったように思ったのは私だけではなかったと思います。
 
 まあ、普段オリンピックや甲子園を批判しながら、つい力を入れて見てしまうええ加減なおじさんです。
 
 今日の父の診察結果は良好だったようで、ほっとしています。わたしの怪我はいったいなんやったんや(笑)。足を引きずりながら、送り返す松葉杖の梱包をしています。今は、宅急便で取りに来てもらえるので楽。
 
 今夜はオリンピック開会式。巨匠チャン・イーモウの演出が楽しみです。やはりあの独特の「赤」が使われるのか?ワイヤーアクションはあるのでしょうか・・・?それにしても、テロの怖れ、チベット問題、そして餃子の件といいい、今の中国ってややこしい状況ですね。オリンピック後がまた心配です。
 
行く人
 
赤塚不二夫さん  
 
 破天荒な人生のようですが、本当は繊細で傷つきやすい人だったのでしょう。成功して多くの人と会わなければならなくなって、その不安を紛らすために酒を浴びるように飲み始めたそうです。
 
 師と仰いだ手塚治虫さんの言葉「よい漫画を描きたいなら、よい映画をみなさい、よい芝居をみなさい」を終生口にしていて、チャップリン、黒澤明、O・ヘンリーが好きだったとか・・ちょっと意外な気もしました。
 
 それにしても、最後まで前妻、後妻と3人で住み、後妻が先に死に、前妻は彼の死の3日前に亡くなっていたとは・・・。
 
 告別式でのタモリの弔辞が「報道ステーション」で話題になっていました。弔辞の紙が白紙だったというのですが・・・。いい弔辞です。もって瞑すべし。
 
 
タモリ弔辞全文

 弔辞

 8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、私たち世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。終わって私のところにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 それから長い付き合いが始まりました。しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。

 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしかあがりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

 今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。

 あなたは今この会場のどこか片隅で、ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

 私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

 平成20年8月7日、森田一義


2007年8月7日
 
「 三人の 戦死せし兄の 墓祀(まつ)り 八十(やそ)に至りぬ 顔も見えこず 」  
 
 新聞投稿歌から 笠岡市 土屋さん
 
戦後六十年を過ぎ、もう亡き兄達の顔も記憶から薄れているのですね。
 
 長崎の被爆地跡の火葬場、死んだ弟を背負って焼きに来て、直立不動で火葬の順番をまつ幼い兄の写真。まっすぐ前を見つめる目。泣いてはいない。でも噛みしめた口元に血が滲んでいる。何度見ても、激しく胸を打ちます。それを撮したカメラマン、オダネルさん(昨年八月九日!死去)もまた「ナガサキ」を深く心身に刻んで後の人生を生きたのです。軍規を犯して撮影した被爆後のナガサキの写真を秘蔵、四十年の封印後解いて、妨害にめげずに公開、母国、原爆を告発、離婚して来日、写真展を開き、あの少年を捜します。でも、見つからない。そして、その遺志を息子が継いでゆく・・・。(7日NHK特集)
 
 本来、今頃はまだ四国にいて、農作業や、明日の父の通院付き添いの段取りをしているはずでした。人生一寸先は本当にわかりません。帰省して2日目の朝、5時過ぎから庭木の剪定などやっていたのですが、朝食後、蜜柑畑の草刈りに。段々畑での草刈り器での作業を緊張してやり終えた安堵感か、10時過ぎに平地の畑に帰ってきてから、なんでもない段差に脚をとられて転倒。初めは捻挫と思ったのですが・・・。
 
 「懐かしい痛みだわ・・・♪」というのは松田聖子が唄った名曲(「スィート・メモリーズ」)でしたが、腫れ上がってくる足の甲、ズキズキする痛みは・・・17年前、帰省したときにやったのと同じ感じや。同窓会の流れの2次会で、溝に脚をとられて転んだ時の・・・。
 
 午後、痛みをおして運転して、町の病院にゆくとやはり骨折。右足第5中骨、小指に繋がる骨のかかとに近い方でややこしい部分、ギブスで固定して、右足に体重をかけず、それでも力が加わって、ずれると、手術も必要、ボルトを入れて・・・と、この地の名医といわれるA先生の厳しい御宣託。いや、大阪から車で来ておりまして、私しか運転できないのです。父を病院へ連れて行かんといけませんし・・・と必死で訴える。
 
 それなら、このままにしておくから、湿布したまま、早く帰阪して大阪の医者に行って治療を受けなさい、レントゲン写真を添えて紹介状を書いてあげる、松葉杖も持って行きなさい、いつでも送り返してくれたらいいよ、とのお言葉。
 
 もう覚悟を決めました。その晩だけ痛んだけれど、翌日はゆっくり休んで、痛みも治まり、父の付き添いは京都の姉に交代を頼んで了解をえたので、裸足で運転して(ちょっと痛かった)その夜のフェリーに乗って帰阪しました。
 
 覚悟して息子の運転で古市のF病院へゆくと、ここの若い先生はめちゃアバウト。あ、大丈夫、大丈夫、治ります!(そりゃ、いつかは治るでしょうよ・・・)ギブス?暑いでしょ、添え木でいいよ。手術?来週、もういちどレントゲン撮って治り具合で判断しましょ。運転?添え木があっても工夫すればなんとかなるでしょう!そんなに無理せんと、ちょっとはかかとをつけて歩いてもいいよ・・・。ざっと、こんな調子。
 
 リハビリセンターの若いスタッフも気持ちいい笑顔。はい、同じサイズの松葉杖ですね・・・うーん(数分後)、一生懸命探したのですが・・ありました!(笑)おもろい人たちでした。
 
 戦々恐々としていったのですが、若い医師の自信に満ちた?言い切りぶりに却って気が楽になりました。それからはひたすらベットで読書と眠ることに専念。本を読んでいるといつのまにか寝ています。目覚めたらまた読む、いつのまにか眠る、この繰り返し・・・父も、母も、弟の膝も(プレッシャーをかけきれなかった)も心配ですが、今は自分が早く回復することが大事。幸いに講習も来週まで空けています。一日3回患部を冷やし、食事は控えめにして体重を落とし、テニス仲間との練習をキャンセルし、盆前の大山、蒜山旅行もキャンセル(登山はやはり無理?)、秋の復活に賭けます。
 
 四国から嫁ハンが息子達に私の骨折の由を送ったメールに返信2通。長男「アラアラ」、次男「アララ」。ボキャブラリーの乏しい奴らじゃ。
 
 あ、従兄弟のKクン、このニュースも叔母さんには内緒だよ!
 
この数日で読んだ本
 
「ほっこりぽくぽく上方さんぽ」 田辺聖子 
 
 キタ ミナミ 尼崎 ベイエリア 居職の作家は余り出歩かないのですね、新鮮な目で改めて上方を見つめます。その深い古典教養とユーモアに満ちたまなざしがいい。
 
「くすだま日記」 中野 翠
 
 十代の凶悪犯罪頻発について
 
 「私が驚くのは、それが直線的に行動に結びついていることである。ひどくイージーに実行に移してしますことである。思いつきと実行との間に、たいした心理的葛藤が感じられないことである。心理的なタメがないのよ、タメが。いったいなぜだろう。(中略)十七歳の頃の自分のことを思いだしてみる。私はなぜ犯罪に走らなかったのだろう。さまざまな理由が思い浮かぶが、そのうちのひとつに、大人社会への畏怖があったと思う。何か謎めいていて立派で、しかも危険な外国のように、大人社会を漠然と怖れていたと思う。なんだかわからいけれど、考え方にしても生活技術にしても(犯罪技術にしても?)この私じゃあまだちゃんとは渡り合えないだろう、という気持ちがあった。それが行動をためらわせるブレーキのひとつにはなっていた。もしかすると、今の子どもたちにとって、大人社会なって謎でもなんでもないのかもしれない。子ども社会が単に老け込んだだけという感覚なのかも知れない。男と女の境界がどんどん崩れて行くように、大人と子どもの境界もひどく曖昧になって行く」
 
「姥ざかり花の旅傘ー小田宅子(おだいえこ)の「東路日記」」  田辺聖子
 
 江戸末期、筑前の商家の内儀(53歳)小田宅子さんが歌仲間の女性三人と従者の男性3人と伊勢参りに出かける。それから足を伸ばして、善光寺へ、更に日光へ参り、江戸、名古屋、京、大坂を見物しての5ヶ月に旅を彼女の残した日記を元に再現する。
 
 それにしても、安政の大獄前のなんとか最後の平和な時代。豊かな商家ゆえのゆとりと、深い古典教養に基づいて読み込まれた和歌の数々、800里を踏破する健脚と、関を抜ける(関所もこの時代はええかげんになっていたのですね)したたかさ。実録だけに迫力ある面白さです。それにしてもすごいおばさま方の好奇心と行動力。寺社詣で、買い物に芝居見物に、風物観察に、そのパワーはとどまるところを知りません。
 
 善光寺(今までご縁がなく、参ったことありません)が本田善光なる人の所以によるものとは、今日まで知りませんでした。
 
 当時の風俗、庶民や社会のありかたも勉強になりました。費用は今の金で一人150万円くらい。5ヶ月の内容の濃い旅としては割安ではないでしょうか・・・。
 
 小田さんは、俳優高倉健さんの5代前のご先祖。旅の後、10年かかって日記を仕上げ、明治3年、82歳で没しています。田辺さんはこの女性に深い共感を寄せつつ、当時の他の人々の旅日記や自身の取材旅行の経験も平行して記しつつ、時代と日本人をあぶり出して行きます。
 
 「ローマ人の者の物語」21 塩野七生
 
 皇帝ネロの暴走、自滅の後、3人の力不足の皇帝(ガルバ、オトー、ヴィテリウス)が続き、ローマは危機的状況に陥る・・・。
 
 「中間と下部がダメになったら、いかに上部が頑張ろうと何をやろうとダメ、ということである。反対に、中と下の層が充分に機能していれば、少しばかりの間ならば上層部の抗争で生まれた弊害も吸収可能、ということでもある」
 
  どこかの首相、党首、知事さんに聞かせてあげたい。
 

2008年8月2日
 
「 峡(かい)深し 墓をいろどる 立葵 」 沢木 欣一
 
 1日から「瀬古多津治展」が、河内長野、カフェ・ギャラリー「ほたる」でオープン。私の受付当番は9,10日ですが、やはり気になって、幕開けを見に行く。瀬古さんの美術仲間がきれいに展示してくれている。倒れる前の端正な作品、倒れて以後、やや不安定だった画面が、リハビリと共に、線も強くなってゆくのが、手に取るように見えます。これからも定期的にやれたらいいなあ。
 
 よく気の付く人が花の差し入れも(失念していました)。この日のスタッフが、開始時間になってから芳名帳の印刷をしなおしている。慣れない寄り合いメンバーなのですが、相談しながら、手作りのいい展示になると思います。
 
 10時開始早々に懐かしい仲間が続々と訪れ、会場は同窓会の風情。瀬古さんの人柄を思わせます。ご本人も体調をみながら4回ほど会場に来られる予定です。
 
 「2万発」(きっと「誇大表示」といちゃもん付けられる前に手を打ったのでしょう)のPL花火。今年は色彩豊かで、一段ときれいでした。客8人と義母を加えて11人で観賞。ビールはこの日だけはエビスとプレミアム、酒は「酔心」「加茂鶴」「真澄」「白滴」と豪華。もちろん飲み過ぎて、本日は休肝日です。
 
 花火の最中にも寝屋川の叔父から電話。父の容態を訊かれる。みんな心配してくれてはるんだ。
 
 で、今夜、嫁ハンと一緒に帰省します。父は医者の見立てとは反対に、元気で田畑へ行っているようですが、ま、一緒に病院に行ってきちんと話を聞こうと思っています。叔父にも報告を約束しています。さらに心配なのは弟の怪我。まだ脚を引きずっているらしい。こちらをまず、病院に蹴り込まなきゃ。
 
 しばらくHP更新できません。みなさま、よい夏を!



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