Kan-Kan の雑記帳


2011年3月31日
 
「 みちのくの 淋代(さびしろ)の浜 若布(わかめ)寄す 」  青邨
 
 作者の実家は盛岡でした。近くの淋代の浜は今頃若布刈りの季節のはずでした。
 
 午前5時。彼岸を過ぎて夜明けが早くなりました。やうやう白くなりゆく二上の山際(山の上の空の部分)に金星とその上に2月27日の上弦の月が懸かっています。美しい情景なのですが、老眼と同時に進んだ乱視のせいで、星は二つに、月は二房あるバナナに見える(苦笑)。目を細めて見てやっと納得。昨夜は酩酊してこの欄を書きました。よく憶えていません。心配しつつ開けてみる。やはりミスタッチあり、感傷に流れているなあ。反省。送受信欄を見ると、テニス仲間の娘さんからの質問に返信までしている(苦笑)。どれどれ?日本書紀についてあれこれ・・・。差し障りのない内容だったけど、これは怖い。反省。酔ってからのパソコン操作は今後、慎みます。
 
やがて、朝日が昇ってくる気配。「春はあけぼの」です。
 
 最後の一日。被災地救援職員バザーをやって、午後に定年退職の辞令を貰って、時間休をいただき、さっと帰るつもりでした。明朝再任用の辞令を頂き、明日からまた現任校で勤務するのですから、自分だけの小さな区切りだと思っていました。
 
 昼過ぎに連絡があって校長室へ行こうと思ったら、いきなり校内放送。「職員は指定の行動をとってください」。な、なんなんだ!?と思っているうちに、校内にいた30人余が校長室に集合、拍手の中で辞令拝受しました。花籠と記念品をいただき、そして全員で写真撮影。サプライズに感動、声を失いました。
 
 その後、転勤・退職される方との名残を惜しみました。見送られるのが辛いからと、あえてそっと去る方も。その気持ちもわかります。5時に退出しようとしたら、かつての教え子で元同僚が花束を持って駆けつけてくれました。いなかったらどうするつもりやったん?先生は残ってはると思っていました。
 
 帰り道、しみじみ喜びがこみ上げてきました。
 
 友人のいつもの店で待っているというメールの誘いを今日は丁寧に断って、帰ると、教え子からの祝電が届いていました。6年前の卒業生で、東京で演劇の道に進んでいます。憶えていてくれたんだ。
 
 いつもは発泡酒ですが、今日はプレミアムビールで夕陽に乾杯。春の夕暮れもいい。
 
 一足遅れて帰ってっきた嫁ハンが電車の中で花束を持っている男性が何人もいたよ。今日退職されたんやねえ。夫婦で白ワインで乾杯。
 
 今日、全国で何万という人が退職したことでしょう。ささやかな一地方公務員ですが、この38年間、本当に幸せな職業人としての人生を過ごせたと思います。そして今日、幸せなゴールでした。このHPを読んでくださっているみなさんを含め、あらゆる方々に感謝します。
 
 ありがとうございました。
 
 
2011年3月30日
 
「 流されて 放り出されし ランドセル 小さな背中の 温もりを 思ふ 」
 
   朝日歌壇より 春日井市 伊東さん
 
 年度末、最後の仕事。来年度も残る生徒の事情申し送り。書類に添えて文章にする。分掌の仕事をまとめて、電子データで残すと共に、、プリントアウトして見やすいようにファイルに挟み込む。これで、本年度の仕事はほぼ終わりです。ほっとして、そして、寂しい。
 
 平行して東北・関東大震災支援バザー。この忙しい時に、みんな協力してくれて、一日で8千円の売り上げ。朝から持ち込み、展示、店番とややこしい手配に職員のみんながきちんと応えてくれて嬉しかったです。これだけの力と雰囲気のある職員集団はそうそうありません。転勤を希望したのですが、残留は正解だったのかも知れません。
 
 沢山の資料を整理、シュレッダーの前に30分もいたでしょうか?卒業した生徒の残した小論文(私が添削した)の一部に「柳暗花明」という言葉がありました。中国帰国子女であった彼女を支えた陸游の漢詩が目に飛び込んでという来ました。「苦境の向こうに希望がある」というその言葉が胸に沁みました。
 
 帰りの車の中で、たまたまミュージカル「レ・ミゼラブル」を聴いていたら、「ワン・ディ・モア」が流れて来ました。老いたジャン・バルジャン、革命を夢見る若者達、若い恋人コゼットとマリウス、ジャン・バルジャンをつけ狙うベジャール、さまざまな思いが交差しつつ、明日を思います。
 
 帰宅したら、書家である友人から篆刻したハガキが届いていました。「老復丁」の言葉。「老いてなお盛ん、がんばれ」そのメッセージがドーンと心に届きました。その筆名は陸游の詩の一節から採ったものです。これって、不思議な符合だと思うと同時に、幸福感を感じました。いい友人に恵まれました。
 
 いい気分になって、ちょっと飲んだ酒が指を動かしません。ここまで打つのが大変でした(苦笑)。耳に残る「ワン・ディ・モア」のすごいコーラスの最後のフレーズは「ワン・モア・ディ」。あと、一日・・・。
 
 明日が最後の一日です。
 
 

2011年3月29日
 
「 被災地を 視ては夫婦で涙ぐむ 温き部屋にて熱き物食べ 」 
 
朝日歌壇から 飯田市 草田さん
 
 同僚に教えてもらった藤波心さんのブログを拝見
ここ数日で60万件を超すアクセスがあったという今、話題の人物、ブログ
14才のアイドルという話題性を抜きにして
そのきちんとしたした意見・論理・文章に感嘆しました。
 
心ない中傷や非難もあったようですが

「賛成意見でも、反対意見でもいいんです。

被災地について、

原発について、

電力の問題について、

ふるさとの問題、

便利・豊かってなに?

テーマは色々あると思うので、

こんなときだからこそ、

みんなで、色々、話し合って、考えてほしいんです。

そして、賛成だったとしても、反対だったとしても、

節電してほしいんです。」

と語る冷静さ。

末怖ろしい、いや末頼もしい。こういう若者も出てきているんですね。去りかけの老兵は嬉しい。

指導要録の相互点検が終わりました(係による点検は来月)。疲れました。

そして、明日から被災地救援の為の職員バザー。どんどん物品が集まっています。

心さんにも、カズ(44才のゴール)にも負けないようがんばります。

定年まであと2日。


2011年3月28日
 
 「 卒業子(そつぎょうし) 送りてひとり 教室に 」 NHK俳句番組から
 
 作者も教師なのでしょう。賑やかだった教室にひとり残った思い。寂しさもあり、切ないけれど安堵と満足感も。38年間で何度も味わって、最後の一年でまた味わうことが出来て、幸せなゴールでした。
 
 卒業式に結局出なかった女子生徒。群れるのが嫌で、写真などにも入ろうとしない。前日の記念撮影もおだててすかして、やっと最後にさっと列に入って、ニコッと笑ってVサインなどしている。就職試験は惜しいとこで通らず、結局アルバイト生活に入る。癖があるけど、シャイで個性があって、わたしの好きなタイプの生徒でした。母親も、私も式に出なさいと言ったのですが、この子は聞かなくて・・・と嘆く。まあ、いいじゃないですか、と慰める。
 
 式の後、卒業証書いつ取りにくるんや?とメールすると、わからんわ、と返信あり。いつでもええけど、俺が生きている間に来てくれよ、と打ち返しておきました。
 
 2日後にメールあり。今から行くわ。連絡通り30分後に幼児を抱いた姉と一緒に現れる。姉も私が2年前にチューター(担任)をしたのです。そして先生お世話になりました、これ姉と私から、と言ってそれはかわいい花籠(白い薔薇、ピンクのスイトピー、ピンクのマーガレット、かすみ草・・・)を差し出したのです。職員室で年次リーダー(学年主任)の先生に証書を渡していただく。みんなで拍手。手を振って笑顔で卒業してゆきました。
 
 卒業式は震災の起こった日でしたね。あの時のHPに書いた卒業証書を置いて帰った生徒。これも取りに来ると言った日に来ない。電話したら、地震やなにやで忘れていました・・・。ほんとに可愛いやつではあったけど、物忘れの名人でした。これこれ、と最後のお説教。
 翌日、一応電話してきて、これから行きます。ちゃんと時間通りに現れて、先生方みんな拍手。最後にちゃんと出来たねえと褒められて、本人は嬉しそう。わたしは、みんな、持ち上げんといて、昨日来んかったんはあかんのやで、これから専門学校へ行っても気をつけんとあかんで、遅刻したらあかんで、と最後まで小言。本人は頭を掻きつつ、下げつつ帰ってゆきました。
 
 そして、今日、最後の指導要録を書き上げる。
 
 これでおしまい?いえいえ要録点検があります。それに分掌や残る生徒の申し送りもしなければ。そして、30日、31日で東北関東震災支援の職員バザーを開催します。残っている年休の消化なんてどうでもええわ。最後までばたばたするのが私らしい終幕だと思います(笑)。
 
 定年まであと3日。

2011年3月27日

「 ニュース見るたびに増えてゆく死者の数 悼む思ひはひとつといふに 」  ゆうこ
 
 行きつけの居酒屋のマスターは福島出身。兄弟の3家族12名が屋内退避しているのだそうです。水を送ってやりたいけれど、送れないと気を揉んでいました。
 
 東電を非難、批判することは簡単だけれど、ここまで原発を進めてきたのは国の、国民の責任。まず、対応に全力を。批判より支援すべき。

心にとまったニュースから

東日本大震災 たんすに乗って漂流し助かる 大船渡の男性

 3月27日(日)18時55分配信

 津波で家ごと流された岩手県大船渡市の会社役員、金野健一郎さん(37)は、たんすにつかまり大船渡湾を漂っているところを小型船に助けられた。船長の男性は、名前や住所を頑として名乗らなかった。金野さんは「船長の恩は一生忘れない。落ち着いたら捜して、もう一度お礼を言いたい」と話している。

 地震が起きた11日、金野さんは公民館にいったん避難したが、スーツから着替えるために港から約300メートルのところにある自宅に引き返した。2階の窓から外を見ると、「真っ黒な波が渦を巻いて迫ってきた」。

 みるみるうちに2階まで浸水。倒れて浮いていたたんすの背に必死にしがみついた。そのまま天井まで約30センチのところまで浮き上がると、「バキバキ」と音をたてて家が回転し、突然、大きな衝撃音と共に屋根が吹き飛び視界が開けた。たんすの上に乗ったまま沖に向かって流されていた。

 日が暮れ始めたころ、「多賀丸」という船名の小型船が通った。「助けてくれー」と叫んだが、コンテナや民家、木とあらゆるものが海に漂っており、「無理だ」という船長の声が聞こえた。「このまま沖に流されたら終わりだ」と絶望的になった。

 だが約1時間後、多賀丸は引き返し、ロープを使って救助してくれた。「信じられない。助かった」。涙をボロボロと流し、何度も「ありがとうございます」と繰り返すと、船長はただ黙ってうなずいていた。

 そのまま一晩を船上で過ごした金野さん。夜は一睡もできず、落ち込んでいた。「命があるだけでいいんだ」「またやり直せばいい」。船長は金野さんを励ましてくれた。

 12日夕、金野さんは別の漁船に移り、大船渡湾の東側に上陸。数時間歩いて公民館にたどり着き、避難していた家族3人と抱き合い無事を喜んだ。「助かったのは奇跡。家族と頑張って、一から生きていきたい
 
 4日間の帰省から帰阪して4日。指導要録の仕上げ、先日卒業した生徒の進路相談、職員室の大掃除と机移動など、慌ただしい日常に加えて、4日連続のパーティ、宴会。それも3つは一応主役?というこの年まで経験のない(あ、結婚前後にあったかな?)というハードな日夜。
 
 27日の日曜は4年前の卒業生が集まって退職を祝ってくれて、うれしい時間でした。もらった生花の花束のお礼に、ドライフラワーを配る。ちょっと洒落がきつかったかな(苦笑)。
 
 去年のハイチ地震の時に救援バザーをやりました。今こそやらねばと思い立ち、卒業生に呼びかけておいたら、27日にたくさん持って来てくれました。職員にも呼びかけて近々実施の予定。
 
 定年まであと4日です。
 

2011年3月24日

「 浮葉見えて さざなみ広き 彼岸かな 」 水巴
 
あの世には 津波もない 蓮の咲くおだやかな池があるそうですが・・・。
「彼岸明け」でしたが、お彼岸どころではない春です。
 
 茨城の従兄弟のところ、水は出たかなあ。兄ちゃん(私のこと)、支援物資でカップラーメンもらったけれど、水が無いんや!と言っていたけれど・・・。それに計画停電の追い打ち(被災地は省けよ)。被災後3日で5キロ痩せたそうです。ダイエット出来たやんか!と茶化しておきましたが(彼は巨漢)大変やろなあ。飼料が生産出来なくて、家畜が死んでいっているという報道も。心痛みます。置き去りにされた、また飼い主を失ったペットも。
 
 被災地の子供達の笑顔を見るのが辛い。スパイクを履いたままの子も。部活動中に被災したらしい。
 
 卒業証書の納めた金庫は無事だったが、鍵を仕舞った机が流されて・・・と茫然とした表情の先生。
 
 陸前高田の醸造元は流されたけれど、気仙沼の酒蔵「男山」は高台にあったため残り、絞りを始めたそうです。
 
 23日まで帰省していました。今回はひとりの旅でしたし、費用も考えて高速バスで。時間は6時間。往復1万円(フェリーなら2万円超)。この時期の帰省は初めて。ソメイヨシノはまだ固い蕾でしたが、いつも3月末には散っている裏庭の「明正寺桜」が満開。私が家を離れてから植えられたものですが、もう樹齢40年を超えて2階の窓に届くほどです。ピンクがかった大きな花びらが特徴で、驚くほどに匂いが強い。これは初めて知りました。
 
 例によって、母の入園している施設との往復や集まった姉弟での相談、家事、炊事、掃除などであっという間の4日間でした。来月は10日前後に帰省します。
 
 帰阪して、留守中の溜まった仕事、編転入考査、判定会議、指導要録記入などでまた慌ただしい日常に帰る。夜は宴会が続きます。退職まで1週間です。
 
ゆく人
 
女優のエリザベス・テイラーさん死去…79歳

 3月23日(水)22時9分配信

 【ニューオーリンズ(米ルイジアナ州)=西島太郎】「バージニア・ウルフなんかこわくない」(1966年)などで2度のアカデミー賞主演女優賞を獲得し、ハリウッド黄金時代の銀幕を彩った女優エリザベス・テイラーさんが23日、ロサンゼルス市内の病院でうっ血性心不全のため死去した。79歳だった。

 米主要メディアが一斉に報じた。

 ロンドンで生まれ、39年にロサンゼルスへ移住。10歳で子役として映画デビューし、「若草物語」(49年)、「花嫁の父」(50年)などでスターの座を獲得した。

 「バターフィールド8」(60年)でアカデミー賞主演女優賞を初受賞。その後も「クレオパトラ」(63年)、「いそしぎ」(65年)などでファンを魅了して、「ハリウッドで最も美しい女優」などと称賛された。

 私生活では8度の結婚歴で有名。近年は闘病生活が続き、米メディアによると心臓の不調を訴えて6週間前から入院していた。

 息子のマイケル・ワイルディングさん(58)はABCテレビに対し、「母は特別な存在です。大いなる情熱、ユーモア、そして愛情と共に生を全うしました」などとするコメントを発表した。
 
 確かに美しい人でした。特に「花嫁の父」の時は輝くばかり。映画としては「予期せぬ出来事」がよかったなあ。8度の結婚で恋多き女性と言われましたが、もっと恋をした女優はいっぱいいる。彼女は一度も浮気、不倫をしなかった。恋したら必ず離婚して結婚した。その律儀さ?真面目さ?がある面すごいと思います。あの翠の瞳はスクリーンに永遠に残ります。

2011年3月19日
 
 1週間振りの酒に酔いしれて、服を着たまま眠ってしまいました。こんなことは何年ぶり。この時期に不謹慎なような、後ろめたい気分です。
 
 最後?の休日出勤をして、指導要録を書く。
 これも毎年欠かせない、日展。天王寺の市立美術館で。今年は油絵に力作が多く、なぜかバイオリンを持った女性が多く描かれていました。
 
 夜、茨城(「いばらき」が正解だそうです。つい「いばらぎ」と言ってしまう)で被災した従兄弟から電話。まだ、家の前の道路は液状化したまま。水は出ないのでトイレも流せない・・・長い電話になりました。
 大阪へ休みにおいで。
 工場(もちろん人間が優先だけれど、家畜の飼料も供給が途切れている、なんとか救いたいという)が大変で当分休暇はとれません。
 水不足に停電、操業も大変です。
 
 そういえば、千葉で鶏インフルエンザのニュースがあったようですが、それもぶっとんでいますね。
 
 現場で命懸けで働き続けている人々が多くいる。政府の対応のまずさを非難するより、そのことを心に刻んでおくべきと思います。
 
 津波に根こそぎやられた跡地で娘一家を捜している婦人がいる。家は無くなり、海水に洗われても、庭先の梅の木が花芽を脹らませている。その小さな梅は孫の誕生記念に植えたものだそうです。孫もまだ見つかっていません。
 
 明朝の長距離バスで帰省します。 
 
 
2011年3月18日
 
 首相達が原発に気を取られるのはわかります。当然、今最優先の緊急課題。それと平行して、被災地の救援を。人材はいるはずだから、もっときちんと指揮官も分配しなくては・・・。
 
 上の息子の勤務するホテルにも関東からたくさんの避難客が来てはるらしい。 
 
 下の息子が久しぶりに帰宅。同僚もたくさん東北地方に出向しているらしい。
計画的停電について質問。
 
あの信号が消えたときの、交差点での交通整理は出来るん?
出来るよ、訓練受けてきたもん?(とやってみせる)
わかる?
わかりません。
教習所で法規で習ったはずなのに憶えてないよね?
習ったことも憶えてないし・・・
だから現場では、あえてわかりやすいパフォーマンスでやってるんだ。(と、やってみせる)
 
ナルホド。でも、計画停電だから、信号の電気は残せないの?
 
寒い春です。
使い捨てカイロや「看板娘」のように簡単に暖められる飲料を届けたいですね。
 
申し訳ないけれど、1週間ぶりにお酒。若い友人から届いた「大信州」をいただく。めちゃおいしい。
Tさんアリガトウ。
陸前高田の消えてしまった銘酒の醸造元を思います。
 
 
2011年3月17日
 
 救援物資の寄贈は現時点では諦めました。被災地に送っても、分配できない現状では却って迷惑になります。もう少し様子を見ようと思います。高石市も次便の段取りがつかない様子。和歌山県はカップ麺などに限って受け付けているようです。当面はやはり現金を寄付することにしました。
 
 最近読んだ本
 
「 光あれ 」 馳 星周
 
 原発の町敦賀の青春。主人公徹はいつの間にか20代後半、高校時代から続いてきた連載もここまできたら切ない。前回、高校時代から同棲していたキャパクラの年上の女性、愛と別れ、清純な女子高生真理と結婚し娘を設ける。しかし、徹は浮気し、妻子と別れ、大阪の愛を頼ってゆく。
 
 あの一途な青年が、大人の世界に染まってゆく。それは寂れてゆく敦賀の町で次第に「死んでゆく」自分に耐えられなくなったからだ。大阪でとことん泣いて、やはり敦賀に帰ってゆく徹。原発の町で生き直すんだと誓いながら。
 
 この時期に読むと違った意味でつらい。
 
 

2011年3月16日
 
 岩手県宮古の小学校でも卒業式。飾りもなく、避難した時の服のままの生徒や保護者も。家族が亡くなった生徒もいます。普通の卒業式をやってあげれなくて申し訳ないと、やつれた表情の校長先生。髭を剃る水もないらしい。先生方は12時間交代で避難所になっている学校の運営をしているとのこと。役所の職員の方も同じ。その方々も被災者。倒れないといいけれど・・・。
 
 10万単位の避難している人々。でも、孤立して救助を待っている人々がまだ2万人以上いる。自衛隊のヘリコプターは物資輸送より、人命救助を優先している、それはわかります。ただ、病人や怪我をした人に薬などが届かなくて、新たな犠牲者を生んでしまうのではと心配。
 
 減災効果ー三陸海岸は釜石にある世界一の防波堤を始め津波対策は非常に充実していたのだそうです。それを上回る大津波だったんだ・・・。もし、あの防波堤がなかったら、もっと悲惨な災害になっていただろうという・・・。
 
 昨日の現任校での終業式。生徒会からの訴えがあり、式後に体育館入り口で募金活動、3万円余りが集まって昨日から始まった日赤の募金活動に寄付しました。先日やったノートの売り上げも添えました。
 
 現金がいいとは思いつつ、何か目に見える物的援助をしたい。高石市が毛布・タオルなどを集めているという報道があったので、救援対策本部へ電話してみました。新品の毛布など7品目に限って提供を受け付けるとのこと。
 
いつどのように発送するのですか?
明日か明後日、トラックで出発予定です。
それには間に合いません。次の便は?
まだ、予定が立っていません。
 
 次便があるかどうか、不安ですが、動いてみよう思っています。
 
 雪の中の府立高校後期入試。我が校は前期だったので、今日は合格者が登校しての学力テスト。これを元に学習グループを編成します。午後は横殴りの雪の中、合格者の出身中学へヒアリングに廻る。丁寧に対応して頂きました。
 
 被災地の学校は受験どころではありません。冒頭に述べた小学校の卒業生達、中学に入学出来る日はいつでしょう。
 
2011年3月15日
 
 原発4号機の爆発。静岡で震度6の地震。大阪も揺れました。不安が募ります。
 一方で5日ぶりに救出された人も。あの寒さと暗闇の中で。どんなにしんどかったことでしょう。寒さがぶり返し、厳しい状況で、つい絶望的な気分になりがちですが、諦めてはいけません。
 
 仙台の市役所の積まれた水などの支援物資の山。情報が集まらないので、どこにどう配布していいのわからないのだそうです。何言うてんねん!
 
 物資別に分けて、送れるとこからどんどんヘリで送ればいいのです。この時期に、変に平等にとか公平にとか、文句の出ないようになどと言っている間はありません。
 
 送れる場所に送る。支援物資が途中で消えたり、取り込まれたり、一部の者の利益になったりという国もありますが、今の日本にそんなことはほぼありません。余裕があれば、近所の避難所に廻す智恵も心もあります。トイレットペーパーや紙おむつは投げ落としても大丈夫。
 物資が足らなくなったらどうする?それこそマスコミを使って、これこれが足りませんと言えば、全国からあっという間に集まります。それだけの財力、民意がまだ日本にはあります。仙台までは届くのです。
 
 緊急事態に備え、みんなが買い漁り、東京のホームセンターからガスボンベが消えた、と都民の意識を嘆くような報道もありましたが、そんなこと言っている間に、名古屋、大阪のガスボンベを手配すればいいのです。
 
 あー、もーじれったい!救援物資の手配、私にやらせてくれ!とテレビに叫んでいたら、嫁ハンも私もやりたい、と同調。アホな夫婦です(苦笑)。
 
 せめてもと、この5日間わが家では暖房を使っていません。
 
 石原都知事の「天罰だ」発言。広い意味で捉えろということでしょうが、この時期に、この立場の人が口にする言葉か?あまりに無神経(いつものことですが)。ほんまアホちゃう?
 
 友人の友人。震災当日、福島の病院で脳腫瘍の手術を受けていた。開頭した時に揺れが来て、そのまま閉じたと聞きましたが、それからどうなったのだろう?
 
 

2012年3月14日
 
 私の提案
 
ネオンを消す。
 
飲食店などの営業も時間短縮。
 
各家で暖房などを抑えるようキャンペーン。
 
テレビの報道はNHKと民放一社に統一。あとのクルーもヘリコプターもすべて援助物資の運搬に廻す。
 
全てを統括する対策本部でヘリコプター部隊を作り、タイムテーブルを組んで、分担して各避難所の近くの広場に援助物資を次々投下する。東京からならすぐに飛んでゆける。
 
そのくらいの機動力と組織力は首都東京にあるやろ?
 
 茨城の従兄弟(飼料関係の会社に勤務)の安否を九州経由でやっと確認。会社も工場もめちゃめちゃ。電気は点く(今日は部分計画停電ー首都は大混乱)が水がでない。大きな工場は釜石にあって、こちらは連絡もつかないそう・・・。
 
 息子の嫁さんのお姉さんは千葉。こちらはブログで無事を確認。道路が盛り上がったり陥没したりしている様子をupしてはったけど「無事デス」とのこと。よかった!
 
今日のニュースから
 
「想定外も超えた」=奇跡的に生存、支援訴え―甚大被害の南三陸町長・宮城

3月14日(月)18時50分配信

 「想定外という言葉も使えないぐらいすごい波だった」。大津波で壊滅的被害を受け、約9500人が安否不明の宮城県南三陸町で、奇跡的に一命を取り留めた佐藤仁町長(59)が14日、災害対策本部と避難所を兼ねる町内の体育館で記者会見した。町を壊滅させた津波のすさまじさを語り、「避難民の食料や水、毛布が圧倒的に足りない」と全国に支援を求めた。
 「自分の頭を超える波が、何回も行ったり来たりした」。津波到達時、町長は役場本庁舎隣の防災センターにいた。波は3階建ての建物を丸ごとのみ込んだ。屋上につながる手すりに必死にしがみつき難を逃れたが、屋上や屋内にいた職員約20人は流され、残ったのは10人だけだった。
 その晩は建物に絡まった流木にライターで火を付けて暖を取り、「体を寄せ合い、励まし合いながら頑張った」と声を詰まらせた。
 町では41人が犠牲になった1960年のチリ地震の津波を教訓に、毎年住民の避難訓練を続けてきた。ただ、想定した津波は当時の高さ5.5メートル。今回の波は高さ約11メートルの庁舎を超えており、町長は「それだけの規模しか想定できなかった」とうつむいた。 
 
 とにかく、まずリーダーが無事でよかった!ここで踏ん張ってください。
 
 卒業生のロッカーを整理しつつ、捨てられていたまだ使える沢山のノートを職員室で1冊10円で販売。売り上げは義捐金として寄付の予定。昼休みに職場の同僚の名コックが「トムヤンクン」を作り、これも一杯100円で販売。
 
 地震・津波の記事ばかりですね、ハイ、でも、現地に比べたら申し訳ないほどの贅沢な普通の営みもやらせてもらっています。
 
 日曜のランチは義母の80才(傘寿)祝いでフレンチ、午後はホワイトデーの買い物。テレビで被災地の状況を見ている間に読書も・・・。
 
 原発がまた爆発したというのに、ピリッとしない政府(対策本部)、国民(私)。なんや、いらいらします。

2011年3月13日

 時間が過ぎてゆきます。救出活動も必死で行われているのはわかるけれど、あまりに大きい広範囲の災害です。
 今思えば、失礼ながら、神戸や淡路島の震災の場合は、まだ今回より条件が「マシ」でした。津波には襲われなかたし、火事はあったけれど、家が基本的に移動することもなかった。場所は比較的狭い地域、傍に大都市が控え、救援体制も比較的取りやすかった。
 
 今回の悲劇は広範囲の為、現状が掴めないところにありました。初め、福島県の被災者が多いなあと思っていましたが、宮城や岩手の情報が入らないだけだったのですね。リアス式海岸という地形。小さな海沿いの町や村はどうなっているのでしょう。
 
 早朝からテレビを見続けていました。いろいろな被災者が質問に応えていました。被災の様子を語っていたけれど、ご家族は?という問いに顔色を変えて、ふたりの息子の名前を呼びながらふらふら歩いていった若い父親・・・。インタビュアーもそれ以上質問できませんでした。

 高校生の娘と落ち合い、近くの図書館の3階に避難していたのに、いきなり窓ガラスを破って波が襲ってきて、娘と繋いでいた手が放れ、二人とも流されてしまったと語る母親。奇跡的に助かったけれど、娘さんは不明らしい。

 家の屋根に乗って2日間漂流し、沖合15キロでイージス艦に救助された人。奥さんは不明のまま。まだ、漂流している人がいるかも。
 
 原発の方も目が離せません。更に重大な災害になる可能性も残っています。震度7の大きな余震がくるという予報も。そして72時間目が迫っています。
 
 どのチャンネルも、ずっとすべて特番。報道の仕方にだんだん局のカラーが出てきました。阪神淡路大震災の時は、在京のキー局は、翌日から一部通常の番組をやっていました。今回は東京に近いから?とひねた見方を初めにしていた私ですが、途中で見方を改めました。
 
 本当に未曾有の大災害なのです。ひょっとして、経済面も含め日本の将来を左右するような事件、国難でもあるのでしょう。しっかり見つめ対応しなければなりません。
 
 それこそ、毛布や水を送ってあげたいけれど、輸送の手段もなく、物品の寄付は断っているようす。当然で、やはりお金がいいのでしょうが、すでに始まっている街頭募金は会計に不鮮明な部分があります。いつもバザーの度に寄付しているユニセフ関係は海外援助が中心であり、日赤はあまりに問い合わせが多すぎるらしくHPに繋がりません。気は急くけれど、数日様子を見てから、自分なりに出来ることを考えようと思います。
 
 それにしても、暴動・略奪がおこるわけでもなく気丈に耐えている、また必死で活動している人々の姿に頭が下がります。なにも出来ないことが申し訳ない。
 
 インタビュ−に答える人々の言葉から
 
「チリ地震も体験しました。再起しますよ」と微笑んで語る老夫婦。
チリ地震津波の時、私はたしか10才でしたが、三陸海岸で多くの人が犠牲になったこと、津波の到着がものすごく早かったこと、憶えています。
 
「家は?」 という問いに
「持っていかれました!」と明るく?応える小学生の男の子。
 
 人だけではありません。牛や馬や犬が被災地を彷徨っている。川辺に、倒れた木に後ろ脚を挟まれて動けなくなった馬がいる。哀しい目をしてじっと立っている。飼い主が見つけて駆け寄り、なんとか足を抜いてやる。2日ぶりに自由になって、飼い主の男性の肩に長い首と顔をすり寄せて甘える馬。この情景、幼い頃故郷で見たなあ。
 
 報道されませんが、松島はどうなっているのでしょう?瑞巌寺は?平泉は?立石寺は?それどころではないでしょうが・・・。
 
こんなニュースもありました。
 
 日本、地震で2.4メートル動く=米地質調査所
 【ワシントンAFP=時事】米地質調査所(USGS)の研究者らは12日、東日本大震災の一連の揺れにより、日本列島が8フィート(約2.4メートル)動いたとの見解を明らかにした。
 同調査所の地震学者はAFP通信に対し、「これほどの規模の地震では、大きな地盤の移動が起きる」と指摘。移動距離は「大体8フィートほどだ」と述べた。地球物理学者もCNNに「ある全地球測位システム(GPS)基地が(8フィート)動いた」と説明した。 

 どちらの方向に動いたのでしょう。それほどの大きな地球規模の天災だったんだ!

2011年3月12日 大地震・大津波の翌日 午後11時
 
 朝からずっとテレビを見ています。惨状。映画「ヒアアフター」で見たのと同じような映像。でもこちらはCGではない。もう阪神大震災をはるかに超える災害であるのは厳しい現実。犠牲者は万を超えるのでは・・・。
 
 昨日、幼い妹のインフルエンザの看病の為、茶話会に出ずに帰った生徒に電話。
 
どうや?
うん、妹の熱は下がった。一緒にテレビ見ています。センセー、これって日本史に残る事件やねえ。教科書に載るよね。
悲しいけれど、確かにそうだねー。
 
 なんで水を被ったあとの町が燃えるのだろう?それはこの寒い時期、各戸に灯油がいっぱいあったことも原因のひとつだそうです。流れ出した灯油が水に浮いて燃え、火災を拡がらせてゆくのです。
 
 津波の怖さ。そのものすごいパワー。昔、夏に急流を歩いて渡った時の事を思い出しました。膝から上の深さ(50〜60センチ位)になるともう歩けない。倒れたらおしまい流されるしかない。実は、その時、向こう岸の手前で転けて、流されながら必死で手近な岩にしがみついて、友達に引っ張り上げてもらったことがあります。あの時の水圧の強さは圧倒的ですごい恐怖感でした。清流でもそれです。それが何メートルもの黒い、車も家も飲み込んだ壁となって迫って来たのですから・・・。
 
 原発も心配。今更ですが、十数年前、イタリアが原発を廃棄したときに日本も追従すべきでした。フランスに歩調を合わせて作りつづけてしまったのは、やはり過ちだったのです。フランスに地震はあまりないが、イタリアは日本と同じ、火山国で地震も多いのです。
 
 約束も予約もあったので、申し訳ないと思いつつ、午後からテニスコートへ。ところがメンバーが少ない。
 
あれ、○○さんは?
彼女、実家が秋田なの・・・。
ええーっ?あ、そうか、秋田は岩手の隣やもんね!それで?
今は、連絡がつかないらしい。電話線も切れているって。
携帯は?
停電しているので、充電できないらしいよ。
 
心配やろなあ。で、△△さんは?
彼は千葉の人。実家が大変らしい。家の人は無事らしいけれど・・・。
 
これだけで、いかに広域の災害なのかわかりました。
 
テニスは盛り上がらず、早々に帰ってきました。
 
テレビから目を外すと
つい、来週に予定されていただろう高校入試はどうなるんだろう、などとと思ってします。
でも、テレビの画面を見たら、中学校や高校も廃墟になっているんだ
受験生も行方不明なんだ
そんな次元ではないのだ、と思い知らされます。
 
そして、そんな中、チェーンメールにひっかかってしまいました。
ちょっとおかしいとは思ったのですが・・・
被災地を案ずる人の気持ちにつけ込んで、混乱を引き起こして
救援活動の邪魔をして楽しむ愉快犯め。
悔しい。腹が立つ!
 
うっかりメールを送ってしまった方々、ごめんなさい。すみません。

2011年3月12日 大地震・大津波の翌日 午前10時
 
 卒業式無事終了(「卒業生の言葉」もうまくいきました)。でも体育館は朝からストープを焚いてくれたけど寒かった。卒業生退場で扉を出るやいなや、先生、おしっこ、よし、卒業証書預かったるわ、おねがいします、で、読み上げ名簿のファイルの間に挟んだまま、茶話会、後片付けへと流れ、二人とも忘れていました。
 たまたま、その彼とは茶話会(盛り上がりました)後、一緒にダンボールをゴミ置き場まで運び、そこで、ありがとうございました、元気でな、と別れて、直後に気づきました。
 双方同時に電話して、ゴメン、こちらこそ、と言い合っている時に、くらっとしました。目眩かなと思ったら、同僚が地震です!と騒ぎ始めました。窓の外に見える鉄塔が揺れていました。
 
 年取って、大概の事に驚かなくなっていましたが、今回の災害には茫然。テレビに釘付けです。広範な被害地区、もう、陸海空の自衛隊、そして警察(機動隊)は総動員、米軍もロシア軍も中国、韓国にも援助を依頼すべきです。政権の真価が問われます。雪が降っている、寒い中、72時間といわれる救命活動リミットの砂時計が落ちてゆきます。急がなければ。
 
 それにしても報道の仕方にも疑問あり。
 
 避難先の小学校の前からのリポートで、「体育館には電気も灯りもなくテレビも見られないので、情報が入らず、みなさん不安の一夜を過ごしています」ーあんたがおるやろ!
 
 朝がきて、避難先の高台から、低地の自宅付近に様子を見に帰ろうとする人々(その気持ちはよくわかる)。でも、まだ「大津波警報」が出ているのですー止めろよ!
 
 取材ヘリが飛びまくるのはある面、仕方ないのかもしれないけれど、声を頼りに救出活動をしている邪魔になるのです。毛布が、トイレットペーパーが、食料が足りませんと言いつつ、そんなら各社のヘリで、ちょっとずつでも落として行けよ!と思ってしまいます。「どこでもドア」があれば、持っていってあげたい。
 
 


2011年3月10日

 

「 卒業の日も 自転車で 帰りけり 」  NHK俳句番組から 

 

予行前夜の9日夜、いつもは連絡メールを送ってもなかなか返信しないスボラなわがグループの奴らから次々メール。曰く・・・

 

「明日は何時ですか」(アホ、5回言うたやろ?プリントを見よ!)

「予行は何時に終わりますか」(それも言うた!)

「何着ていったらいいですか」(自分で考えろ!)

「先生、今頃言うのはおかしいですが、赤が似合いますね」(ハイハイ、アリガトウ)

 「入社予定の会社の研修で行けません」(わかっているよ。がんばれ、公欠扱いです)

「熱が出ました。妹がインフルエンザで・・・」(すぐ、病院へ行け!ー結局、風邪で 無 

 事、今日登校しました)

 

もう、小学生か!?(苦笑)。忙しかった予行当日。予行後、茶話会の準備。その間を縫って、卒業出来なかった生徒とその保護者と懇談。予行の後で、「卒業生の言葉(答辞)」の練習。代表生徒6人ががんばったので、こちらもウルウルきてしまいました。いよいよ明日卒業式。最後のグループニュースを印刷。現任校では週1だったけれど、前任校では毎日出していたので、38年で1500号ほど出したことになります。ほっとしたような、清々しいような、不思議な疲労感に包まれています。お湯割2杯飲んで早めに休みます。

 

最近のニュースから ふたつ

 

国歌斉唱せず懲戒…東京高裁ほぼ全員取り消し

 入学式や卒業式で国歌を斉唱しなかったことなどを理由に東京都教育委員会から懲戒処分を受けた都立学校の教職員ら計168人が、都に処分の取り消しと1人当たり55万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が10日、東京高裁であった。

 大橋寛明裁判長は、請求を棄却した1審・東京地裁判決を変更し、ほぼ全員の処分を取り消した。賠償請求は棄却した。

 都教委は2003年10月、都立学校の各校長に対し、式典での国旗掲揚や国歌斉唱を適正に行い、校長の職務命令に教職員が従わない場合、服務上の責任を問うとする通達を出した。教職員らは同年11月〜04年4月の式典で国歌斉唱の際に起立しなかったなどとして、戒告や減給の処分を受けた。教職員側は「通達に基づく職務命令は思想・良心の自由を保障した憲法に違反する」と主張していた。

 また、ピアノ伴奏を拒否し、戒告処分を受けた元小学校教諭ら2人が処分取り消しなどを求めた訴訟でも、同高裁は同日、請求を棄却した1審・東京地裁判決を変更し、処分を取り消した。
 
 むりやり押しつけて愛国心が育つはずはありません。まして、処分し、それを見せしめにして徹底しようなんて・・・。
 
 
文豪、森鴎外(1862〜1922年)の代表作「舞姫」のヒロイン、エリスのモデルは、現ポーランド生まれの当時20代前半の女性であるとする新説が浮上した。ベルリン在住のライター、六草(ろくそう)いちかさん(48)が、ドイツの教会に残された記録を新たに発見した。

 1890年に発表された「舞姫」は、日本人留学生と貧しい踊り子エリスの悲恋を描く。鴎外が自身のドイツ留学時代の体験を基に書いたとされる。エリスのモデルは、鴎外を追って来日し1カ月後に帰国した女性で、当時の乗船名簿にある「エリーゼ・ヴィーゲルト」とみられてきた。

 しかしその正体は文学史上の謎で、15歳の少女、31歳の人妻などさまざまな説が唱えられてきた。六草さんは「舞姫」の中の記述、エリーゼの住所や職業、名前、両親の婚姻の記録などを精査。さらにドイツの教会で「エリーゼ・ヴィーゲルト」が洗礼を受けた記録を発見した。

 これらの資料からエリーゼは、1866年9月15日に現ポーランド・シュチェチンで生まれた、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトと結論付けた。後の職業は帽子の製作者。氏名に加え、鴎外の遺族が残した記録など多くの資料とも合致しているという。

 六草さんは「教会の記録にたどり着いたのは、私が初めてではないか。このエリーゼが、舞姫のなかのエリスに間違いないはずです」と話している。

 鴎外研究で知られる大妻女子大学の須田喜代次教授(日本文学)は「これまでの探索に比べ、今回のエリーゼが鴎外の実際の恋人であった信憑(しんぴょう)性、蓋然(がいぜん)性は高い。エリスについての研究が前進したといえる」と語った。

 六草さんがエリスの正体を追った「鴎外の恋 舞姫エリスの真実」は、講談社から刊行された。
 
 近代文学の「古典」ですが、エリスという女性像は最近古びてきて、読者の反発もあるようです。

ゆく人
 
坂上二郎(さかがみ・じろう)さん
 
 「コント55号」で国民的人気を集めたコメディアンで俳優の坂上二郎(さかがみ・じろう)さんが10日、栃木県内の病院で脳梗塞のため死去した。76歳。通夜・告別式は執り行わず、近親者のみで家族葬を行う。

 平成15年に脳梗塞で倒れ、リハビリで一時は舞台に復帰したものの、昨年8月に自宅で再び倒れてからは療養生活を送っていた。

 昭和9年、鹿児島県生まれ。歌手を目指し19歳で上京、歌手の付き人を経て漫才師になり、東京・浅草のストリップ劇場「フランス座」のコントで共演した萩本欽一さんと41年、「コント55号」を結成した。

 松竹演芸場や有楽町の日劇で舞台狭しと駆け回る勢いのあるコントを披露、萩本さんの全身を使った突っ込みをきっちり受け止める「チッコイ目の二郎さん」として人気者に。テレビのバラエティー番組にも進出し、44年に始まった「コント55号!裏番組をブッ飛ばせ!!」などで活躍した。コントの中で始めた飛行機の手ぶり付きの「飛びます、飛びます」は、坂上さんの代名詞ともいうべきギャグとなった。

 俳優としても味わいのある演技をみせ、TBS系「夜明けの刑事」、NHK大河ドラマ「翔(と)ぶが如(ごと)く」、映画「天城越え」など多くの作品に出演。二期会のオペレッタ公演「こうもり」に出演するなど歌手としても実績を残した。

 昨年8月に自宅で倒れてからは身体が不自由となったが、コント55号の結成45周年にあたる今年1月に萩本さんと出演予定だった明治座の舞台に最後まで意欲を示し、声による出演で、最後の“共演”を果たしていた。
 
きんちゃんのコメント「じろうさんのバカ!」。泣いてはりました。


2011年3月8日

 

「 その先の 決まらぬままに 卒業す 」  NHK俳句番組から 姫路 黒田さん

 

「崩壊前夜」「後継者は?」マスコミはもう政権交代を前提としたような報道。あっさり現政権を見捨てての論調。それでいいんやろか?脇の甘かった前原さん、辞任は仕方ないのかもしれないが、ミスをつついて大臣の首を切り続けて、その後、まともな政権が誕生するのか?

 

思えば前首相の重なる失策、失言や小沢さんの居座りという負の財産を背負っての現政権です。確かに指導力の無さは事実ですが、あかんから、ほな次へで、後はどうなる?

米国の、「ころころ首相や外務大臣の変わる国を相手にまともな交渉はできない」という見解が一番まともであり、国際政治の上でも怖いところです。

 

最後のハードな一週間がはじまりました。卒業出来なかった生徒への来年度科目登録と、進路が決まっていない生徒への対応。人数は少ないけれど、これが結構大変。朝からメールして、念を押しておいたけれど、もちろん、時間通りに来れない。ま、来れるような生徒なら卒業できているのですが・・・(苦笑)。

 

最初の生徒が来たのが9時40分。約束は9時。これが最後と思うので、またお説教。時間を守れないと人間として信用されないよ、遅れるときは連絡するのがマナーやで、遅れてきたら、まず謝る・・・。もう何千回言った言葉でしょう・・・。できません。

 

午後1時の生徒は20分遅れ。午後3時の生徒は15分。「ぼんやりしてて・・・」「親が起こしてくれなかった・・・」自分のことなのに他人事みたいに言うのが腹が立つ。ほんまに常識というものが身につかんかったなあ。あれだけ言うたのに・・・と、職員室でぼやいていたら、

センセーまだ来るだけましですよ、うちのグループは6人呼んでいて、来たのは3人だけでした。3人は連絡もなくキャンセルです。うちもです。うちもです・・・。どんな学校や?

みんなで怒り、慰め合い、溜め息をつき、そしてまた電話にかじりつく。

 

平行して卒業式の「卒業生の言葉」いわゆる答辞の仕上げ。こちらはまずまず。読み上げる6人も無事卒業が決まりほっとしました。当日遅れないで来れるか心配ですが・・・。

 

卒業式後の茶話会の準備も。実行委員はあれしたい、これしたいと言いつつ、自分が前に立つことは嫌がる傾向強し。それは無責任やで、最後までやらにゃ、と説得するも、逃げ腰。そこを逃がさない。いい経験になるんだから。

 

まだ、諸費を払ってくれない生徒の保護者に連絡。20日前に現金書留で送ると連絡して来たのに届かない。事務の担当者と一緒に家庭訪問をすると連絡したら、急な夜勤が入って今夜は帰宅できない、明朝うかがいましょうか、いえ、来てもらっても金がありません。6月なら払います。今年度の話なのですが・・・。

20日前の電話はなんだったんだろう?先週、旅行してはったというのは?都心のマンションに住んではるのに・・・。

 

それやこれやで疲労困憊。倒れそうになって帰宅して、飲んで即、寝るべしのところ、もうひとふんばりして風呂にゆっくり入って半身浴、その後ストレッチして休む。その方が睡眠が深く、半端な時間に目覚めず、朝方までしっかり眠れることに最近(今頃)気がついたのです(苦笑)。

 


2011年3月6日
 
「 それ以上 開かぬ花弁 藪椿 」 朝日俳壇から 松山市 吉武さん
 
 山陰(やまかげ)の寒くてちょっと小暗い場所に、固い蕾の先に紅を覗かせている藪椿。目を引きます。でも、開花することはないという言い切り。なぜか、たしかにそうだろうと思わせられる。こころに妙に残る句です。
 
4日、整骨院へゆくと
 
「ーさん、悲しいお知らせが・・・」
「?」
「院長が突然、転勤になりました。」
「何処ヘ!?」
「福岡へ」
 
 詳しく訊くと、整骨院のグループが九州進出を図り、その1号店を福岡にオープンするらしい。若くて独身ということもあって、その初代院長に抜擢されたらしい。栄転だから喜ぶべきだろうけれど、別れを言う間もなく九州へ飛んでいったらしい。開店は3月7日とのこと。
「ーさんによろしくとのことでした。また新しい住所など連絡しますとのことでした」とサブ・チーフ。
 
 昨年4月にオープン以来、早い時期に経営を安定させた手腕も評価されたのでしょう。明るく元気なヤツでした。一期一会は世の習い。でも、寂しくなります。新院長が挨拶してくれたけれど、気はそぞろ。春は出会いと別れの季節とわかってはいるのですが・・・。
 
最近印象に残った記事ー今日の読売新聞から
 
河井寛次郎について
 
 「陶芸家ではなく「一陶工」として生きた寛次郎は、若い頃を除いて自分の作品にはほとんど銘を入れず、人間国宝や文化勲章に推挙されても応じなかった。偉人ではなく異才である。」
 
 きっと「名人」とか「芸術家」という言葉を嫌ったのでしょう。京、五条坂にあるという河井寛次郎記念館に行ってみたい。
 
週刊朝日の内舘牧子さんのエッセイから
 
知り合いの若いボクサー(減量と闘いー水を断ち、早朝からのロードワーク、バイト、ジムワーク・・・)が人なつこい笑顔で
 
「俺、試合が終わったらコンビニの端から端まで買って食うんだ」
 
レストランでも、寿司屋でもなく、コンビニであるところがなんともリアルで切ない。
 
内舘さんはこれを引いて、
 幕下以下の力士が恵まれていないわけではない、むしろ力士は恵まれている、どんなスポーツにも「下っ端」の時代・環境はあり、そこで必死になってのし上がってゆくのだ。それと八百長問題を直結してはいけない。「やるべき事は「師匠」の教育だ。横綱審議会が毎回具体策を提案したが、協会は動かなかった。」
と嘆く。
 
今日のニュースから
 
吉野林業の原点である吉野杉の酒の樽(たる)、桶(おけ)を復活させ、そのよさを見直す「銘木と銘酒の町フォーラム」が5日、奈良県吉野町の中央公民館で開かれた。約200人の参加者は、約60年ぶりに樹齢100年の杉で作られた木桶仕込みの新酒を試飲し、香りを堪能した。

 企画したのは町内の木材、醸造関係者らでつくる「吉野ウッドプロダクト」(上垣公俊代表、12人)。木材不況が長引く中で「原点に戻りまず樽、桶から吉野杉の魅力のPRを」と発案した。年輪が細かく香りが高い吉野杉は約300年前、酒造地・伊丹、灘の酒樽材として育林が始まった。酒造用は町内でも姿を消したが、首都、関西圏の蔵元へのアンケートで約1割が使いたいと回答した。

 今も大型の仕込み桶を作る藤井製桶所(大阪府堺市)が高さ150センチ、直径140センチの桶を作り、メンバーの「美吉野醸造」(同町六田)が仕込んだ。同社で試飲した桶製作者の上芝雄史さんは「普通では考えられないレベル。吉野杉だから実現できた」と満足顔。大阪市の村岡幸年さん(62)は「杉の香りがなじみすっきりしている。びっくりした」と話していた。
 
 いい試みだけど、杉の樽酒は正直、杉の香りがきつすぎて、私は銚子2本で十分です(それだけ飲めば結構?ー笑)。
 
2011年3月5日
 
「 落椿 猪の骸で とまりけり 」  朝日俳壇 さぬき市 野崎さん
 
 この椿は紅いのでしょうね。死骸を取り巻く無数の紅い落椿。
 
 中古のマンションなので、あちこちガタが来はじめました。給湯器に続いて洗面所の蛇口が水漏れ。業者に来て貰って取り替えたのですが、1万円以上もかかってしまいました。その業者の言うことにゃ、この蛇口ぐっと立ち上がるんですよ!エエーッ!知らなかった。腰の痛い時、しゃがまないですむのですね。5年目にして初めて知りました(笑)。
 
 卒業式を控えて、まだ諸費を払っていない生徒の家に、事務の方が行ってくださる。電話で現金書留で送ると言ってはったので、待っていたけど、届かないのです。転居したというマンションの部屋には表札もないので、規定によって督促状も入れられなかったと、がっかりして帰って来はりました。
 
 先日書いた、答辞を読む生徒、無事卒業決定しました。来週から練習。
 
 こちらは合格者登校。午後からの全員登校に先駆けて、午前中2時間半かけて、中国からの帰国子女のヒアリング。お祖母ちゃんがいわゆる残留孤児でその生徒はいわばクオーター。おばあちゃんは?はい、30数年前に亡くなりました。中国人のおじいちゃんも・・・。
 
 でも、その縁で、子孫20数名がここ10年間で次々日本に帰国。そのことを、あの世でおばあちゃんはどう見てはるだろう。お父さんは帰国7年たっても日本語が話せず、職についてはりません。
 
 奨学金は?要りません。返さなければならないんでしょ?そのとおり!しっかりしています。がんばれよ。
 
 熊本の女児遺棄事件。大学生逮捕。スーパーのレジで、ちょっとトイレに行ってくる、ああ、気を付けて、それが殺人事件に繋がるとは・・・。しかも雛の節句に。附いてゆけばよかったと、きっと自分を責めてはるでしょう。親の気持ちはたまりません。
 
 クライスト・チャーチの地震現場も救助活動をうち切り。かすかな希望が絶望に。こちらもたまりません。
 
 子供が無事育ってくれただけで、もう満足、うれしい。先日の上の息子の誕生日に祝いメールを送ったら、返信に「丈夫な体に生んでくれた両親に感謝、感謝」。もう、これだけで充分。子育ては終わりました。ラッキーでした。
 
 田舎の父は、相変わらず朝からしっかり飲んでいるらしい。下の息子と一緒に帰省した看護士をしている婚約者が仰天して報告あり。「充分お元気、まだまだ大丈夫ですよ。」
 
 今月末で90才。癌の進行はいったいどうなっているんだろう?嬉しい戸惑い。
 
 遅くなりましたが、このHPも先月末でまる10年を迎えました。永年のご愛顧ありがとうございます。
 
 最近気になった言葉ー昨夜、酔っぱらって友人に送ったわたしのメールの文章から
 
いろんなヒトがいていいと思ってます。
だからいろんなヒトの存在を許さない風潮は許せません。(厳しい状況ですが)
ただ、私は自分のポリシーで国歌・国旗には敬意を表します。(神社・仏閣・ご先祖・お墓・他の宗教にも・・・)
もちろん、日仏協会に行けばフランス国旗や国歌にも敬意を表します。
私は、それでいい、と思っています。
 
 卒業式が迫っています。毎年、論議になる国旗・国歌の問題について、友人と交わしたメールの一文。その友人は、国歌・国旗の押しつけは、それを受け入れる人間も含めて許せないという。いろんな考えのヒトがいていい。
2011年3月4日
 
「 便りする 相手また減り 春寒し 」 朝日俳壇 宝塚市 松井さん
 
逝く人
 
プロ野球・巨人で首位打者を3回獲得し、中日の監督として巨人のV10を阻んだ与那嶺要(よなみね・かなめ=本名・ウォレス・カナメ・ヨナミネ)氏が2月28日(日本時間1日)、前立腺がんのため、米ハワイ州ホノルルのシニアホームで死去した。

 85歳だった。葬儀は今週末に行われる。喪主は長男のポール氏。後日、東京で「お別れの会」が開かれる予定。

 ハワイ出身の日系二世。1951(昭和26年)、マイナーリーグを経て、戦後初の外国人選手として巨人に入団した。「ウォーリー」の愛称で親しまれ、米国仕込みの激しいスライディングで日本のファンを驚かせた。俊足巧打の外野手として54年に3割6分1厘で初の首位打者に輝くと、56、57年にも首位打者。52年から58年までベストナイン、57年には最優秀選手にも選ばれた。プロ12年で通算1219試合出場。1337安打を放って通算打率は3割1分1厘、盗塁も163個を記録した。
 
 小学1年の頃。
雑誌新年号の付録のカルタ「き」は「聞きたいな ハワイのお話 与那嶺に」でした。
ちなみに「な」は「長嶋はビフテキ食べてホームラン」。
 
【ロサンゼルス28日AFP時事】米女優で米軍兵士のセックスシンボルとしても有名だったジェーン・ラッセルさんが死去した。89歳だった。
 歯医者の診療所で受付係りをしていたところ、新作映画「ならず者」のヒロインを探していたプロデューサーのハワード・ヒューズの目に留まって抜擢された。1943年に公開された同作でグラマー女優として有名になり、米軍兵士のピンナップガールとなった。マリリン・モンローと共演した53年の「紳士は金髪がお好き」でハリウッドでの地位を固めた。
 肉体派としてのイメージとは裏腹に、私生活では熱心なキリスト教徒で保守的だった。3度結婚し、1度の離婚と2度の死別を経験している。虐待児童らの養子縁組支援活動にも熱心に取り組んでいた。
 
 日本ではモンローの人気の陰で霞んだ感じがしましたが、アメリカではすごい人気。ゴージャスで華やか、でも大味。それは作られたイメージだったのですが・・・。
 
[映画.com ニュース] 仏女優アニー・ジラルドさんが2月28日(現地時間)、79歳で死去した。晩年はアルツハイマー病を患っていた。

 ジラルドさんは、ルキノ・ビスコンティ監督の「若者のすべて」(1960)、クロード・ルルーシュ監督の「パリのめぐり逢い」(69)、ミヒャエル・ハネケ監督の「ピアニスト」(01)など、50年代から数多くの作品に出演。フランスを代表する演技派女優として、これまで3度セザール賞を受賞している。

 ジラルドさんの訃報に対し、フランスではサルコジ大統領をはじめ、政界、映画界から数多くのおくやみのコメントが発表されている。ジラルドさんと同世代の女優ブリジット・バルドーは「終わることのない悲しみを感じている」と語り、「彼女の人生は非凡でドラマチックだった」と生前のジラルドさんの功績を称えた。
 
 こちらは地味な中年女性のイメージがあります。
控えめで確かな演技力。思い切った演技もしました。病気とは知らなかった。

2011年3月3日
 
「 冴え返り 冴え返りつつ 春なかば 」 西山 泊雲
 
昨日は春の雪。今朝(4日)は氷点下。「明けの明星」が煌めいています。
 
入試問題を投稿した予備校生が逮捕。「偽計業務妨害容疑」。この言葉知らなかった。
京大にいた知人からメールを貰いました。
 
「京大職員側にも、うちの生徒、受験生は大丈夫という甘え、緩みがあったように思います」
なるほど。
高校受験では持ってきた場合(持参しないように受け付け時、指示しています)、携帯を預かり、封筒に入れて保管、受験終了後に返しています。
 
3日、卒業判定会議。4日から卒業できなかった生徒への来年度の科目登録指導です。
 
コミック「バーテンダー」より 
 
カウンターの客にカクテルを差し出すバーテン。
声を掛けて貰いたい客。でもバーテンは無言ー。
 
「私にはあなたにかける言葉はない
本当の悲しみの前に
同情の言葉なんて無力だから
でもあたなの苦しみはちゃんと知っている
あなたの孤独はちゃんとわかっている
あなたは決して独りなんかじゃない」
 
一杯のカクテルに癒されて立ち去る客
ラストシーン
 
「あなたがもし
店のことは忘れていても
バーの灯りは点いている
 
あなたの魂が孤独に傷つき
苦しみと悲しみに押しつぶされ
その灯を必要とする時のために」
 
「吹き出し」が少ないコミックも、散文詩のようで、また面白い。
 

2011年3月2日

 風雅とは 大きな言葉 老いの春 」  虚子

 

aicezuki」はアルファベットを逆に読んで、「行くぜCIA」になるという説、「アイスズキ」と読んでアイスクリーム好きと解する説。声優グループ「aice」のファンだとか、諸説かまびすしいけれど、私の説はー

 

 「すずきあいー鈴木愛」と読めるのではないかな?

 

最近印象に残った言葉

 

薩摩焼 14代家元 沈 寿官(ちんじゅかん)さん(51才)

豊臣秀吉に朝鮮半島から連れてこられた初代から400年

「たとえば、高麗王朝が青磁で名をはせたのに、朝鮮王朝では白磁ばかり。韓国の人たちは実に思い切って過去を否定し、それが創造のバネにもなります。」

で、日本は?

「 海を越えて渡ってきた文化をいつまでも大事に保存し、さまざまに活用するのが得意」

でも、捨てられない苦しさも?

「 日本の豊かな蓄積は、現実から新技術を生み出す職人文化の源泉。まさにまねも買収もできない真の強みのはずです。韓国や中国があきれ果てるまで職人芸を極めれば、おのずと必要とされ、共存共栄の道が開けます。」

 ソウルの博物館で見た、青磁、白磁のすばらしさを思い出しました。捨ててこそ次に行けていたのか!?

 


2011年3月1日
 
「 風ありと うなづき合うや 寒牡丹 」    青畝
 
 地震で行方不明者の中には、今日誕生日だった人もいるのですね。親御さんのお気持ちや如何。
 
 アカデミー賞の授賞式。全て本命が受賞。サプライズはなく、淡々と、受賞者は用意されたコメントをしっかり読み上げて、これはそれでよかったのですが。人間というのは勝手なもので、これではもの足りないと思ってしまうのですね。テレビの視聴率も尻下がりで、翌日の今日、あちこちのマスコミやネットでの評は散々。でも、こんな年があってもいいのです。手堅い力作が並んで、娯楽大作が少ないこともありました。決して若い二人の司会者の責任ではありません。
 
 東京スカイツリーが電波塔として世界一の高さに。 
 
 アベノ近鉄百貨店の新ビルも基礎工事が終わって、一階部分が姿を現しました。毎日変化する景色が楽しみです。
 
 コミックをしっかり読んでいます。
 
 今日は「スーパージャンプ」から「バーテンダー」。
 
 ドラマ化もされ、金曜深夜に放映されていますが、佐々倉、和久井のバーテンダーコンビの新しい店も軌道に乗ってきました。
 
 いつもさりげない心に残る言葉の挿入が魅力ひとつ。
今回はー
 
人はあまり
幸福すぎてはいけない
幸福すぎると それを当たり前と思って
周りの人に優しくなくなる
 
でも 不幸すぎると
今度は不幸に負けて性格がゆがむ
だから不幸は 一滴だけあればいい
 
今回のカクテルは「ファイナルドロップ」。
 




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